Moller House(馬勒公館)上海歴史、発見!

第23回 2009年02月

 2009年春節おめでとうございます。
私の「上海歴史発見!」もこれで3年目に入ることになりました。
皆様のご愛顧に応え、本年も続けることに致しましたので、宜しくご支援をお願い申しあげます。

北面全景

北面全景

 延安高速道路を走ると南側、陝西南路と延安中路の角に、奇抜な様相の建物が見える。周囲の建物のどれとも調和せず、奇怪な童話の世界のお城のようだ。魔女の帽子のようなゴシック様式の尖塔と中国式釉薬の瓦が見事に融合して、建物全体が特別な様相を呈している。左右対称の急勾配の屋根が北欧様式の建物を抱きかかえるように建っていて、正にアンデルセンの御伽噺に出てくるような建物なのだ。これはMoller 邸で、上海の現実と大きくかけ離れた、少女の空想の産物のように見えるところから、一般に少女が夢の中で空想した建物だと信じられている。

正面入口

正面入口

 スエーデン人の海運界の大物、Eric Moller (英国籍)が家族のための屋敷の建築を計画した際、彼の娘のDeirdre (Dido) Moller が夢の中でお伽の城を見たと言われている。目がさめると直ぐにそれをスケッチして父親に見せた。父Moller は娘をとても可愛いがったので、建築家に彼女の夢の家を建てることを依頼した。これが一般には信じられている Moller 邸の物語だ。

 確かにこのゴシック建築の幻想的な建物を見ると、この話しは至極もっともらしく思える。周囲の雰囲気に合わない巨大な国際的建物がごくありふれた上海に於いてさえ、Moller 公邸は際立って特殊で、確かに夢に誘発されて創ったとしか思えないような建物なのだ。

 しかし実際は、その話し自体が建物のように空想の産物でしかなかった。娘の Dino 自身が、この話しは全く真実ではないと明言しているそうである。

 しかしそれでも、この建物には何か想像を掻き立てるものがある。それは建物に纏わる寓話だけのためではない。Eric Moller 自身もまた伝説上の人物で、一文無しで上海にたってきて、競馬で巨大な富を築き、最盛期にこの夢の御殿を建築したと言う噂であった。

正門

正門

 しかし実際は、彼は富裕な英国系ユダヤ人企業家、Nils Moller の息子で、父親が1860年代に香港で始めた事業は大いに発展し、中国内8都市に営業展開していた。Moller 一族は1950年上海を離れたが、彼らの事業は香港で1990年代まで続けられた。一族の事業の中心は海運と造船で、上海でのMollerの資産リストには、海運業、保険、不動産、投資などが含まれていた。

1913年、Eric Moller は一族の事業を引き継ぎ、更に拡大した。彼は1919年に上海に来て、上海と江蘇省鎮江間の船会社を経営した。1920年半ば、彼は大家族、即ち6人の子供達と犬・猫のペットのための住宅を建築する決意をする。

1階食堂

1階食堂

 1927年、上海の建築会社・Allied Architects Hougai はマスタ-プランを提出したが、建物の完成は大幅に遅れ、実質的に1936年にまで待たねばならなかった。明らかな北欧建築様式と、家中に見られる船をモチーフとした建築様式の組み合わせを見ると、その設計には多分Moller 自身が深く関わったに違いない。輸入会社も経営していたモラーは、ヨーロッパから建築資材をふんだんに輸入し、それらを贅沢に利用した。

階段

階段

 馬勒別墅の構造は極めて複雑で、本館にある106室の部屋は、全て船の船室のように互いに接合されている。特殊なデザインの階段と窓は、訪問者に大きな船室にいるような感じを与える。3階建ての建物は、総床面積3,000平方メートル、特殊なデザインの階段がそこらじゅうに張りめぐらされている。人は階段の入口で道に迷い、一体自分が何階にいるのか分からなくなるだろう。

2匹の中国獅子が両脇を固めた入口から入り、やがて1階の華麗なインテリア、即ち当時の大型クルーズ船をイメージしたモチーフを無理に陸上の設計に合せたような所に行き着く。現在そこは食堂とカフェテリアとなっているが、かつては1階の広い応接間で、今でも精巧な職人技が歴然と残されている。

1階奥

1階奥

 何本もの頑丈な大理石の柱が、鉄製の手すりに両脇を縁取られた2本の短いクルーズ船の階段と中央の踊り場で結合している。床、天井、壁のあらゆる所に美しいスエーデン産の木材が貼られ、それらはMoller が自分の船にも持ち込んだものと同じだった。

ホールにある木枠の暖炉は、精巧で美しい彫刻で埋められ気品に溢れている。家族の浴室にある長椅子と窓敷居は、バラのデザインの高浮彫りで出来ている。食堂には酒と銀器を収めるキャビネットが、保存状態がよいまま残されている。

天井舵輪彫刻

天井舵輪彫刻

 欧州風のクリスタルのシャンデリアとカーテン、四隅にポールの立つベッドは、Moller一家の贅沢な生活を者物語っている。階段に隣接する木製の柱は、天井の梁と同様に見事な彫刻が施され、階段の裏側の木製の板にはデザイン化した羅針盤が描かれている。また階段脇には、船の舷窓の形をした円形の窓が取り付けられている。台所の美しい色タイルも、未だに当時の姿を無傷のまま伝えている。

階段彫刻

階段彫刻

 建物は、ゴシック様式の高級住宅の例に倣い四方に伸びている。家族用の部屋は2階にあり、使用人用の裏階段が建物の脇から3階の彼らの住む小部屋へと通じていた。また3階の或る部屋には、楕円形の鉄製欄干があり、船の機関室をイメージしている。別の部屋には、丸天井に木製の植物の葉をデザインした輪で囲まれた天窓があり、上から明りがさんさんと降り注いでいる。天井のひさしの真下に小部屋があり、そこに通ずる階段がそこここにあり、中には行き止まりの階段さえある。

馬の置物

馬の置物

 外壁は、煉瓦のそこここに釉薬の色付きタイルが貼られ、暗色の建物に色彩を添えている。囲いのある張り出しポーチを出ると、そこは可愛らしい庭園に通じており、そこには銅製の馬の像がある。Moller は上海の多くの資産家と同様に熱烈な競馬フアンで、上流階級用の上海競馬会の有力メンバーであった。銅製の馬の立つ場所は、Moller がお気に入りのアラビア産の競争馬の亡がらを埋めた場所を示していると言われている。その馬はオーナーに巨額の賞金を稼ぎ出したお気に入りの馬であった。後にはペットの犬や猫もそこに埋められたのだ。門の脇にある航路標識は、Moller の海運事業を象徴していた。

 Moller邸は、第二次世界大戦の危険が近づいた1936年に完成した。1941年日本は米英仏に戦線を布告した。上海の外国人移民(ユダヤ人)は強制収容所へと送られた。こうした状況下で Moller も新築の公館を置き去りにしたまま、家族と共に上海を離れざるを得なかった。

南面

南面

 彼の別荘は日本軍に接収され、日本軍将校クラブに変えられた。戦後は国民党により受け継がれたが、1949年解放後の約半世紀は、共産主義青年団上海市委員会が本部として利用した。1989年に市の重要保存建築に指定され、2001年に衡山集団公司の管理の下で、ブテイック・ホテルとなった。

Moller は中国解放後イキリイスに戻ったが、その2,3年後の1954年、シンガポールへ飛んだ際、娘のNancyがシンガポールのKallang 空港で父親を待っている目の前で、彼の乗ったカンタス航空は地上に激突、Eric Moller と他の32名の乗客は帰らぬ人となった。

北面

北面

 Ericの死後息子のEric Jr. とRalph (“Budgy”)が父親の事業を受け継いだ。競馬趣味は次の世代にも受け継がれ、彼らは英国ニューマーケットに種馬牧場、White Lodge Stud を所有して成功を納めたといわていれる。

Moller 公館は、娘の夢から造られた訳ではなかったが、上海に残る奇抜な城は、夢をカプセルに詰めたまま、Eric Mollerの夢として今も残されている。

南面全景

南面全景

 馬勒別墅には、2,000平米の英国式庭園があり、近くの高速道路を疾走する車の洪水とは別天地の、都会のオアシスのように美しい。広々とした芝生は、多くの常緑樹と花々で囲まれ、外の雑踏からVilla を守っている。残念ながら旧館は改装中で、未だ宿泊することができないが、かつては庭でコーヒを飲み歓談しながら、暖かな日の光と花々の芳香を楽しむことができた。とんがり帽子の屋根を持つ御伽噺のような神秘な建物は、今も上海に一つの童話の世界を造りだし、訪ねる者の心を和ませてくれる。改築が済んだ暁には、私も是非一度は夢の城に泊まってみたいと願っている。

島根 慶一

島根 慶一

上海歴史、発見!では、プロの旅行業者が見る、観光BOOKには載っていないもう一つの上海をご案内致します。

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