全てはチョコレート・ショップから始まった Edgar Snow(中国名・埃徳加 斯諾)の生涯②上海歴史、発見!

第38回 2011年03月

スノー夫妻は“12.9運動”を通じ、中国人民に対する共産党の影響力の強さを実感した。しかし当時、共産党の紅軍は陝西省北部で数十万の国民党軍に包囲されていた。

George Hatem

George Hatem

こうした状況下でも、中国共産党は依然として全国的な抗日救国運動を止めなかった。
スノー夫妻はそのことに感動し、一つの抑え難い願望を持つに到った。それは紅軍を取材できないかということであった。
しかし一人の米国人記者が、どうすれば国民党軍の厳重な封鎖線を突破し、紅軍防衛区に侵入出来るのか。共産党の指導者は、侵入してくる米国人を信用するであろうか。
1936年春、スノーは密かに上海へ戻り、宋慶齢に面会した。宋慶齢は彼を失望させなかった。スノーは自分の撮影機や写真機、生活必需品、更に毎日欠かせない珈琲や煙草などを持参して出発した。
スノーの一行には一人の信頼できる伴侶がいた。レバノン系米国人医学博士、ハテム(George Hatem、巻末の注記を参照)である。彼は1933年上海に来て以来、中国共産党へ溢れるばかりの同情心と希望を抱いていた。当時中央紅軍は、高い技能を持つ西洋医学の医者を招聘し、陝西省北部で働いてもらうことを願っていた。宋慶齢がハテムを探し出すと、彼は喜んで同意し、ハテムとスノーは共に西安を目指すこととなった。

この時紅軍を囲んでいたのは、1931年東北から関内(山海関以西、嘉峪関以東の中国中部)に入った東北軍で、総司令官は若い将軍・張学良であった。抗日運動を熱心に主張する張学良は、1935年末に紅軍との交戦を秘密里に停止して、紅軍と接触を始めていた。張学良はスノーとハテムを助け、陝西省北部へ送り届けることに同意した。張学良と東北軍は二人の米国人の陝西省行きのために、貴重な保護と支援を与えた。東北軍のトラックが彼らを延安西北部の安塞古鎮に送り届けた。当時ここは東北軍と紅軍の間の緩衝地帯となっており、土匪や民兵が出没する危険区域であった。スノーは後年次のように書いている。“もし不幸にも匪賊や民兵に遭遇し、私の持参した撮影機材やカメラを見られたら、不審者として二人の命は無かったであろう。”

エドガースノーと周恩来

エドガースノーと周恩来

スノーとハテムは、張り詰めた緊張感に押しつぶされながら道を急いだ。一日経って、彼らはやっと最も危険な地帯を抜けだしたことを実感した。そこで初めて上着を脱ぎ、小川に入って清涼な水で我慢し続けてきた暑さと内心の緊張をほぐしたのだった。
ハテム夫人・ソフィーは次のように述べている。“川で身体を洗ってから半日ほど後に、二人はふと頭を上げると、何本もの赤い房を付けた槍が二人に向けられているのを見た。スノーとハテムは子供の一団に捕えられ、白家坪と呼ばれる小山村に幽閉された。すると鶏肉を含んだ大盛りの食事が出された。間もなく彼らの部屋の扉が開けられ、精悍な顔の紅軍の兵士が入ってきた。彼は二人の米国人に英語で、“Hello, Whom are you looking for?と尋ねた。スノーとハテムは脇にいた者の紹介で、精悍な顔の教養のある上品な軍人こそ、かの有名周恩来だと知って、大いに驚き喜んだ。

周恩来はスノーに言った。「貴方が信頼のできる新聞記者で、中国人民に友好的だとの報告書を受けている。貴方を信頼しているので、有りのままを報道してもらっていい。それだけで十分なのだ。」

周恩来はスノーとハテムのために詳細な訪問計画を立てた。それによれば、全部で92日が必要となり、スノーの当初の滞在予定を遥かに超えていた。スノーは当時、革命根拠地にそれ程多くの見るべきものがあるとは思っていなかった。しかし実際スノーは、革命根拠地・延安での考察に丸々4ヶ月を要したのだ。

1936年延安の毛沢東、スノー撮影。

1936年延安の毛沢東、スノー撮影。

7月13日、スノーとハテムが到着したその晩、毛沢東が彼らの滞在している“外交部”の招待所にやって来た。スノーは後年<西行漫記(中国訳の<中国の赤い星>)の中で、次のように書いている。“毛沢東(当時43歳)はやせ細った顔で、見上げるとリンカーンのような人物だった。彼はふさふさとした黒髪を持ち、鼻筋が高く、極めて頭脳明晰な知識分子の様相を呈していた。“
それ以後スノーとハテムは幾夜となく毛沢東と夜が深けるまで語り合った。スノーは<中国の赤い星>の中で次のように述べている。“消灯の合図がとうの昔鳴っていたが、毛沢東は岩を掘り貫いた深い洞窟の中で胡坐をかきながら、前門牌の煙草を燻らせては、我々と話し続けた。“毛沢東は彼らに、共産主義運動は中国の発展の歴史的な一過程であること、また紅軍誕生の由来と壮大な将来を語り、共産党は内戦停止の呼びかけに従っていること、更に一致団結して抗日に当たるべきことを強調した。

何日にも及ぶ長い話し合いを通じて、スノーは毛沢東本人に対する畏敬の念が湧き上がるのを感じた。
話し合いの中で毛沢東は、度々米国の事情について興味深く尋ねた。彼はスノーに、生きている間に一度米国に行き、ミシシッピー川で泳いでみたい、また有名なイェローストン公園に行きたいと述べた。
スノーは、国民党政府の政治的、軍事的封鎖を突破して中国共産党中央と紅軍所在地に到達し、毛沢東を取材した歴史上初めて外国人記者となった。
その間スノーは、上は毛沢東から下は普通の兵士に至るまで、彼らが何度となく長征の話を語るのを聞いた。それは今だかって誰も成し得なかった快挙で、疑いもなく人類史上最も偉大な出来事の一つだと彼は感じた。またスノーは、<中国の赤い星>の中に長征に関する一章を設けた。多くの歴史学者は、スノーが長征について最初に世界に報道したことで、彼が歴史上優秀な記者の一人に加わったと考えている。

George Hatem

George Hatem

10月末、スノーの4ヶ月に渡る共産中国訪問は終了した。彼は早速北京へ帰り報道の準備に入った。
彼と共に革命根拠地に来た若い米国の医師・ハテムは延安に留まる決心をした。ハテムは言った、“エドガー、君は行ってくれ。僕は留まる決心をした。僕はここの人々が僕を必要としているのが分かるのだ。”
その時スノーは、彼の特別上等なセーム皮のジャンバーを彼に与えた。ハテムは、陝西省北部に滞在中ずっと軍服を着て、この皮ジャンを大事に取っておいた。彼の妻・ソフィーが妊娠した時、彼は始めてその皮ジャンバーを彼女に与えて着せたのだった。新中国成立後、ハテム夫妻はこの貴重な皮ジャンバーを国立博物館に寄贈した。

毛沢東曰く、「スノーは国共統一戦線構築に必要な相互の友好関係に道を開いた第一人者だ。我々はその事をけして忘れてはならない。」

<中国の赤い星>が正式に出版される以前、既にニューヨークタイムスを含め多くの主要な米国の媒体が、その版権をめぐって争奪戦を始めていた。その本は、1937年10月、英国のGrace Publishersから出版されると、直ぐに売切れとなり、一ヶ月以内に3版を重ね、10万冊以上が出版された。米国では1938年ニューヨークのRamadam Houseが同書を出版した。当時日本軍による全面戦争が始まっていたので、ランダムハウス社は同本の表紙に、“何故日本は勝てないか、この本が語る”と記した。以後数年を待たずに、この本は6ヶ国語に翻訳され世界中で出版された。

<中国の赤い星>はそれが生まれた土地、中国に対しても極めて大きな影響を発揮した。中国共産党の地下党員・胡愈の組織がその本の第一部の中国語訳<西行漫記>を出版すると、瞬く間にスノーの名前と彼の著作は中国中に広まった。
当時日本軍は中国で大規模な侵攻作戦を展開しており、中国は民族存亡の瀬戸際に立たされていた。この本が描く中国共産党と紅軍は、後方(国民党支配下の西南、西北地区)と占領地区にいる多くの中国人に新しい希望を与えた。これら地方の熱烈な青年はこの本を読み、道義上の義務感に促されて、陝西省北部を目指して馳せ参じた。

中国の著名な漫画家・華君武もその年そうした仲間に加わった一人であった。華君武は言う、“私は当時この本を読んで大いに感銘を受けた。この世にこんな素晴らしい世界があったのか。役人も兵隊も平等で、軍隊も平民も平等だ。私も是非延安へ行かなければならない。”
彼は上海の銀行の仕事を辞し、香港、広州、重慶、西安と転々とした末に、3ヶ月後やっと延安に辿り着いた。華君武は言う、“この本は私の運命を変えた。私はこの本に心から感銘を受けたのだ。”

スノーの報道は、共産党員の信頼と毛沢東の真心の友情を勝ち取った。1938年、毛沢東は陝西省北部へ取材にきたドイツ人記者にこう語った、“スノーは誰もここに来ることを望まない時に一人でここに来て、直ちに情況を把握した。その目で見た事実を報道することで、我々を支援したのだ。スノーが中国に対して行なったことは偉大なことで、彼こそ国共統一戦線構築に必要な友好関係を築くのに、道を開いた最初の者だ。我々はけしてこの事を忘れない。”

1941年1月、「皖南事件(巻末の注記参照)」が発生した。国民党軍が安徽省茂林地区で、移動中の共産党指導者の新四軍軍部を突然包囲し、攻撃した。新四軍は犠牲者2,000人、捕虜4,000人を出した。

スノーは、新四軍の西南・西北地区連絡官・廖承志を通じて事件の経過を知った。彼は中国在住の外国人記者の中で、最初に皖南事件の真相を報道した。そのニュースは直ちに、西側の国々に大きな衝撃を与えた。米英の外交使節は、蒋介石に釈明を求めた。うろたえた国民党は、事変そのものをあれこれ釈明する一方、スノーの中国での記者証を取り消した。

この時スノーは、疲労困憊の極地にあった。彼は元来、中国に6ヶ月ほど滞在する積りでやってきた一人の若いアメリカ人にすぎなかった。しかし既に青春の13年が過ぎて、彼の心は抑え難い望郷の念に満たされていた。
丁度都合よく、「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」が彼に東南アジアでの取材を委託してきた。そこで彼とヘレンは、中国を離れることを決意した。東南アジア取材の任務が完了すると、二人は彼の故郷へと帰った。しかしその後に起こった新たな状況が、中国を暫し離れたスノーに、更に広い国際舞台での活躍を促すこととなった。

<中国の赤い星>を読んだ米国大統領・ルーズベルトは、スノーに尊敬の念を抱いて、1942年独ソ戦の前線での取材を依頼した。スノーがヴォルガ川河畔に行った時、スターリングラード攻防戦が始まった。スノーは砲火の中で、第二次世界大戦の折り返し点となった重要な戦役を、自己の目で検証するという栄誉を担ったのだ。
スノーはソ連軍陣地で、ゲオルギー・ジューコフ上級大将(注:後に元帥に昇格)と多くの普通の兵士を取材した。彼は凄惨な戦いの中でも、軍人も民衆もともに共通の敵に対して戦闘心を燃やし続け、死をも英雄的壮挙と見ていることを伝えた。

1944年夏、スノーはノルマンデイ上陸作戦の米軍に従って、正に解放されたばかりのパリに進攻した。この時彼はまだ40歳未満であったが、彼の新聞報道の技術は円熟期いあり、更に時局に対する分析力は深い事実認識と洞察力を伴っていた。
第二次世界大戦中、エドガー・スノーは一人の優秀な国際ジャーナリストとなり、東西の戦争の中で多くの大戦を検証し、彼の報道は、20世紀の歴史的な貴重な記録となった。

全てはチョコレート・ショップから始まった Edgar Snow(中国名・埃徳加 斯諾)の生涯③に続く

島根 慶一

島根 慶一

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