音楽が繋ぐ上海と日本上海歴史、発見!

第52回 2014年09月

 本年(2014年)6月14日は、第一次世界大戦が始まって100年目の記念日に当たり、欧州各国で多くの記念式典やイベントが開かれている。大戦は百年前の1914年6月、サラエボ(現在のボオスニア・ヘルスゴビナの首都)で、オーストリア・ハンガリー帝国のフェルディナンド大公夫妻が民族主義者のセルビア人により殺害されたことから始まった。オーストリア・ハンガリーがセビリアへ宣戦布告すると、ドイツ、イタリアがこれに同調、ロシア帝国がセルビアの支援に回ると、英仏もドイツに宣戦布告する。こうしてオスマン帝国やブルガリアなどを巻き込んで、戦場は瞬く間に欧州全域に広がった。歴史上初めて、航空機や戦車、化学兵器まで使った血で血を洗う総力戦が始まったのだ。

 ではこの時、上海の状況はどうだったのか。元来多国籍社会の上海租界では、一応白人社会の秩序は保たれ、国籍の違う者どうしの戦闘は起こらなかった。しかし英国人を中心に営まれた租界の中で、ドイツ人の立場は極めて微妙であった。工部局参事会のドイツ人理事は辞任を迫られた。中国が連合国として参戦を決議すると、ドイツ・オーストリアの最恵国待遇は取り消され、ドイツ銀行は閉鎖、ドイツ・オーストリア船は抑留された。ドイツの敗北が決まると、ドイツ・クラブはフランスに接収され、フレンチ・クラブ(現・花園飯店、Garden Hotel Shanghai)となったのだ。

習志野俘虜収容所記念碑

習志野俘虜収容所記念碑

 話は変わるが、私が今住んでいる市川市から一つ離れたところに習志野市がある。ある日そこの小さな公園で、ドイツ人捕虜千人を収容した施設跡と記したパネルを見つけた。ドイツ人俘虜収容所としては、徳島県の板東収容所が有名である。習志野市にも同様の施設があったとは、知らなかった。

 習志野市教育委員会の貴重な調査資料「ドイツ兵士の見たニッポン」によると、第一次世界大戦当時、約4,700人のドイツ人捕虜が日本各地16か所の俘虜収容所にいた。その後、習志野(千葉県)、板東(徳島県)、久留米、似ノ島(広島県)、青野原(兵庫県)、名古屋の6ヶ所に統合された。では一体これほど大量の捕虜はどこから来たのか。欧州の戦場からドイツ人捕虜を遥々日本へ移送したとは考えられない。そこで初めて、アジアで唯一の大きな戦場が青島にあったことに気がついた。

 妙な話だが、日本は日英同盟を旗印に連合国の一員として参戦し、欧州の戦場とは無関係なドイツ領の南洋諸島と併せて、中国領のドイツ植民地・青島を攻略したのだ。

習志野俘虜収容所記念碑

習志野俘虜収容所記念碑

 ドイツは1898年、山東半島の膠州湾を清国から租借し、青島に堅固な要塞と港湾都市を築いていた。1914年9月2日、日本軍第18師団18,000人が、巡洋艦25隻を含む75隻に分乗して青島に向かう。対するドイツ軍は、青島総督マイヤー・ワルデック海軍大佐、参謀長ザークセル海軍大佐以下4,920名が、オーストリア・ハンガリーの巡洋艦・カイゼリン・エリザベート号など8隻を配して迎え撃った。しかし11月6日、日本軍の青島市内突入を目前に、ワルデック総督は降伏を決意、4,791名のドイツ兵及びオーストリア・ハンガリー兵が日本軍の俘虜となった。

習志野俘虜収容所見取り図

習志野俘虜収容所見取り図

 日本は彼らを、「ハーグ陸戦法規」に則って、丁重に扱った。第二次大戦の場合と比較したら、雲泥の差である。例えば日本政府は、捕虜の階級ごとに、日本軍の給与とほぼ同額の月給を支払った。陸軍中佐の183円から下士官以下の30銭まで、将校以上は月給の範囲内で衣食住一切の費用を自弁するが、下士官以下には、収容所内の一切の賄いに加え、求めに応じてみかん、ビスケット、コーヒ、タバコなどの嗜好品も支給したのだ。
習志野収容所の所長は西郷寅太郎、西郷隆盛の長男である。彼はドイツ陸軍士官学校を卒業し、ドイツ滞在13年の経験者であった。ドイツで教育を受け、その文化に深く親しんだ西郷が、ドイツ人捕虜を管理する立場に立つたのだ。彼はどのような気持ちで自らが学んだ先進国の捕虜に接したのだろうか。

習志野俘虜収容所跡

習志野俘虜収容所跡

 収容所内では、別途賃金を支払って行う労役の他に、彼らが自主的に行う畑の耕作や家畜の飼育などがあった。その他に文化活動として、捕虜仲間を講師にしたカレッジの学習会、演劇、スポーツ競技、収容所新聞の発行や、丸善から取り寄せるドイツ語専門書の勉強会なども行なわれた。本国との手紙の遣り取りも可能で、その為の切手や便箋も支給された。

習志野捕虜オーケストラ

習志野捕虜オーケストラ

 だが特筆すべきは、彼らの音楽活動である。習志野収容所には、ハンス・ミリエスが指揮する60人ほどの捕虜オーケストラと、アルフォンス・ヴェルダンが指揮する60人の男性合唱団があった。

 楽器は上海から輸入したり、中立時の米国ドイツ系移民から慰問品として贈られたりした。所内で頻繁に音楽会を開くだけでなく、周囲の日本人の為の演奏会や音楽教育さえ行われた。ビアノの独奏から始まり、ピアノ・ヴァイオリンの二重奏、チェロを加えた三重奏、ハイドン、モーツアルト、シューベルト等の弦楽四重奏、ヴェートーヴェン・メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲など、当時一般の日本人が耳にすることがなかった生粋の西洋音楽が、奏でられていたのだ。1917年のルター生誕400年祭記念コンサートでは、記念講演に弦楽オーケストラと合唱、ヴェートーヴェンの第五交響曲など興味深いプログラムが組まれた。

習志野捕虜オーケストラプログラム

習志野捕虜オーケストラプログラム

 香川県丸亀俘虜収容所が坂東収容所に統合された際には、彼らの「徳島オーケストラ」も板東のオーケストラと合体し、45名の「エンゲル・オーケストラ」が誕生した。楽団の名称は、指揮者のパウロ・エンゲルの名から採られた。他にも、マンドリン楽団や合唱団があった。丸亀高等女学校での演奏会や、板東でも日本人向けに度々演奏会を実施し、収容所外部で多くの音楽教育を施した。1918年、ヴェートーヴェンの交響曲第9番を日本で初めて演奏したのは、元砲歩兵隊軍楽隊長ハンゼンが指揮する「徳島オーケストラ」であった。(東京音楽学校での初演は1924年11月と言われる。)

板俘虜収容所

板俘虜収容所

 所内には、弦楽器修理工場もあった。終戦から1年遅れの1919年、帰国が実現した際には、彼らの楽器は日本人の弟子たちに譲渡され、彼らは日本初の西洋音楽演奏団「徳島エンゲル楽団」を組織したのだ。

 彼らの演奏は、当時日本で行われた最初の本格的な交響楽団による西洋音楽であった。粗末なバラック兵舎で練習する楽団員の写真を見ると、彼らの音楽への情熱が伝わってくる。ドイツ人の日常生活に、音楽が如何に深く浸透していたかに、心を打たれる。しかしこうした高度の音楽活動は、プロの指導者がいなければ出来ない筈だ。では彼らはどこから来たのか。

 その答えは上海にあった。俄か仕立ての青島ドイツ軍には、東アジア各地で召集した義勇兵がかなりの割合でいたのだ。その中に、上海のパブィック・バンドで活躍した4人のドイツ人音楽家がいた。ミリエスは青島で捕虜になり、習志野に送られた。エンゲルとガーライスは板東に、プレーフェナーは似ノ島に送られ、それぞれの地で解放までの5年間、収容所での音楽活動を担うことになった。

板東俘虜容所見取り図板東俘虜容所見取り図

板東俘虜容所見取り図

 習志野で捕虜オーケストラの指揮者を務めたのはハンス・ミリエス(H. Millies)。1883年生まれのヴァイオリニスト、1910年上海に来て、上海パブリック・バンドのコンサート・マスター兼副指揮者を務めた。習志野収容所の音楽活動は、彼なくしては成り立たなかった。帰国後、彼はキール市交響楽団、リューベック市交響楽団のコンサート・マスター、リューベック市国立音楽院大学院長、シュレスヴィッヒ・ホルスタイン州立音楽院校長などを歴任した。

 坂東収容所のパウル・エンゲル(Paul Engel )は、1881年ドレスデンに生まれ、1912年上海にきて、ドイツ人指揮者ルドルフ・ブック(Rudolf Buck)の下でヴァイオリンを弾いた。彼は当初丸亀収容所に送られるが、その後板東に移されると、「エンゲル・オーケストラ」の指揮者として活発な音楽活動を行った。彼は「徳島オーケストラ」を指揮したハンゼンと共に、所内の音楽活動を支える双璧であった。彼は帰国船に乗るが本国へは帰らず、インドネシア領ジョクジャカルタで職を得たと言われる。長いアジアでの生活により、本国での音楽家活動を諦めざるを得なかったのかも知れない。

 上海パブィック・バンドでヴィオラ兼トロンボーン奏者であったカーライスは、「エンゲル・オーケストラ」でもヴィオラを担当した。似ノ島に送られたプレーフェナーは、上海ではフルート奏者であったが、日本での活動は知られていない。

 俘虜収容所での音楽活動は、捕虜たちを慰めただけでなく、周辺の日本人にも、その後の日本の西欧音楽の発展にも、大きな影響を与えたであろう。その重要な役割を担ったのが、上海パブリック・バンド出身の音楽家たちであったことは、注目に値する。上海の工部局は、彼ら4人は戦闘員ではなく、上海で不可欠の優れた音楽家なので、解放して欲しいと日本政府に申請したが、受け入れられなかった。だがその結果、上海から日本各地に生のオーケストラ演奏が持ち込まれ、黎明期の日本の西欧音楽の発展に大きな足跡を残したのだ。

 では、上海のパブリック・バンドとは、どの様なものだったのか。榎本泰子氏の「上海オーケストラ物語」にのると、パブリック・バンドは、当初上海租界の欧米人の為の娯楽として、アマチュア達が始めた管楽器中心の所謂「ブラスバンド」で、休日などに黄浦江河畔のパブリック・ガーデンなどで演奏していた。
1881年には、工部局の支援を受けることで、市民の税金で運営される公共(パブィック)な楽団となった。当初楽団員は主にフィリピン人演奏家で、その活動は、管楽器中心のブラスバンドと、弦楽器中心のオーケストラ演奏に分かれていた。1908年、弦楽器中心のオーケストラ演奏のレベルを上げるため、欧州からプロの音楽家8名、その後3名を招聘した。その中にルドルフ・ブックもいたのだ。彼の努力により、上海パブィック・バンドは当時アジア一の実力を備えた本格的なオーケストラに成長した。彼の下で活躍していたドイツ人演奏家4名が、不幸にも捕虜となって日本に送られる結果となった。工部局が4名を戻してほしいと願ったのは、しごく当然のことであった。しかし彼らは二度と上海に戻ることが出来なかった。代わって日本は、西洋音楽発展の上で、大いに彼ら4名の恩恵を受けたのだ。なお上海パブリック・バンドはやがて「上海交響楽団」に発展する。
当時ミリエスやエンゲルが演奏した蘭心大戯院( Lyceum Theatre )やグランド・シアター(大光明電影院)は、今も現存している。なお現在の上海音楽庁は、1930年に映画館・南京大戯院として建設され、1,959年に音楽堂として改装されたもので、第一次大戦当時は、まだ存在していなかったのだ。

習志野ドイツ軍捕虜慰霊碑

習志野ドイツ軍捕虜慰霊碑

 いま習志野俘虜収容所跡は、かつての数分の一に縮小され、緑の高い木々に囲まれた公園には人影もなく、歴史を告げる小さなプレートが残るだけだ。少し離れた習志野霊園(船橋市)には、スペイン風邪で亡くなった26名と他の4名を併せて30名のドイツ人が葬られている。
板東俘虜収容所にも同様の記念墓碑があり、当時のバラックの一部を復活したり、ドイツ記念館を設立したりして、日独友好を記念する貴重な施設となっている。

板東俘虜収容所慰霊碑

板東俘虜収容所慰霊碑

 ドイツ人捕虜が帰国して丁度20年後、更に過酷な第二次大戦が始まった。今度日独は同盟国として共に戦い、共に無残な敗戦を迎えた。習志野や坂東から帰国した彼らは、どのような生涯を辿ったのか。当時粗末なバラック兵舎にこだましたオーケストラの優雅な調べを想像すると、なんとも心安らぐ、のどかな時代だったと思えるのだ。

島根 慶一

島根 慶一

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