徐家匯(シュジャホイ)東西文化交流の原点(3)オーロラ大学と復旦大学上海歴史、発見!
馬相伯
以前徐家匯・東西文化交流の原点(1)で、蔡元培が南洋公学の優秀な学生24名を馬相伯のラテン語教室に送った話を書いた。理由は馬相伯の教育方針が素晴らしかったと言われている。では馬相伯の教育の何処が魅力だったのか。単に両者が受けたヨーロッパ的な教育方針が同じだったという単純な理由だったのか。そこで、馬相伯については更に詳しく調べてみることとした。
1900年、北京から上海に戻ったイエズス会の馬相伯は、国の将来の発展のため新しい大学の設立を決意する。そのため彼自身の松江と青浦の土地・200ヘクタールをカトリック江南教区に寄付して、大学の設立を願った。教会は寄付を受けたが、大学の設立はしなかった。そこで馬相伯自身が教育事業に直接乗り出すこととなった。
震旦学院
1902年、蔡元培から南洋公学の学生24名の教育を依頼されると、馬相伯は徐家匯天文台の一部を借りて教育を始めた。その目覚しい成果を見て、雲南、四川、山西省などから、優秀な学生が集まってきた。1903年3月1日、震旦学院は馬相伯により100名以上の学生を集めて正式にオープンした。
“Aurora”とは、インド・サンスクリット語で中国を表し、同時に“東方の光”と“無限の将”を意味した。
馬相伯
震旦学院の教育は、科学を基礎に文学や芸術も教えたが、宗教教育は一切行わなかった。学内の諸事項は、校長・馬相伯の方針に従い、学生たちが選ぶ”Secretaries―幹事“により「学生自治規定」に沿って行われた。こうした学生自治は馬の教育の重要な特色であり、学生の事務能力を養う上でも重要であった。
教育の現場では、“自由な研究風土”を大事にし、何事にも捉われない自由な思想と研究を保障し、自由な討論により知識を深め、如何なるドグマや規定概念に捉われないことを旨とした。教師は生徒に基本原則を教え、基礎学力を付けることで彼らが自ら研究する力を養うことに重点を置いた。これらは現代の発見的教授法と同じである。20世紀初頭の教育として、何と素晴らしいではないか。
震旦学院
教科については、外国語が必修であった。著名な外国語の文献を用いて、学生の翻訳能力を養うことを目的とした。中国語に堪能な学生を選抜し、彼らに英語、フランス語、ラテン語、その他のヨーロッパ言語を教え、欧米の科学書を翻訳できるよう教育した。重要な点は非宗教教育にあった。
馬相伯は言う、“オーロラ大学は宗教宣伝をする場ではない。この学校からは、あらゆる宗教的な宣伝や教義を排除するのだ。”
馬相伯は震旦学院の発展に心血を注いだ。1907年馬相伯は父親の蓄財洋銀4万元と英国租界の土地8箇所(時価10万元銀)を寄付し、天文台の校舎から廬家湾呂班路(現・重慶南路)に移転した。
震旦学院
清朝政府の反発を恐れて一般の学校が革命思想家を受け入れない中で、震旦学院は彼らを積極的に受け入れた。馬相伯は言う、“革命により国を救おうとするなら、先ず近代科学を学ぶことから始めなければならない。近代科学を学ぶために外国語を学び、それにより救国の革命を目指す者は震旦学院に来たれ。”彼の教育理念は、正にその言葉に表されていたのだ。
こうした馬相伯の教育方針は、当然イエズス会の意向とは合わなかった。教会は苛立ち、様々な反対運動を起こした。1905年イエズス会は震旦学院を取り戻すことを決議し、新しい学長として中国人神父・李問漁を任命した。
馬相伯は学内で宗教教育が普及することに、あくまで反対した。しかし教会は馬相伯に学院の資産はすべて教会側にあることを認めさせた。更に教会は、英語に代わりフランス語を学ばせようとして、馬相伯に最初の2年間は英語学習を行わないようにと迫った。馬相伯は同意しなかった。そこで教会は馬の大学執行権を剥奪しようとしたが、馬は諦めなかった。
震旦学院
1905年新学期が始まると、教会は外国人教師に学生の学費の納入状況を再確認させた。実は革命家の学生は学費を免除されていたので、この措置は彼らを放逐することを意味した。これは学生の憤激を買い、学内紛争が始まった。馬相伯は病室に監禁され、教会は新たにフランス人神父を監督に任命し、学内規則を改変した。それは学院を完全に教会の支配下に置くための措置であった。馬相伯自身もイエズス会会員だったので、教会と直接的にことを構えることを避けた。しかし学生は激昂し、瀋歩州を学生会の会長に選んで決起した。両者協議の結果、全校132名の学生のうち2名を残して全員が学院を去ることとなった。それは上海中を揺るがす大事件となったのだ。
数日後、馬相伯は学生たちを呼び、学院の再開を協議した。彼らは馬相伯を学生会の会長に選び、瀋歩州、于右任、邵力子を幹事として大学再開の準備に入った。
復旦大学旧校門
1905年6月29日の2つの広告が載った。一つは徐家匯カトリック教会のよる新たな生徒募集であり、いま一つは、震旦学院の全職員と生徒による独立宣言であった。“震旦学院は解体した。教育器具と図書の全ては新しい学校に移り、教会との関係は打ち切られた。”
馬相伯は厳復、熊希齢、袁希涛と共に宣言文を出し、学院の再開を宣言した。但し学院名は“震旦”ではなく“復旦公学”とした。それは中国の復興を意味していた。1905年秋、復旦公学は学生160名を以って呉淞で正式にオープンした。(1912年、華山路1626号、李鴻章祠堂跡に移転した)
震旦学院
元の震旦学院は、イエズス会が全ての管理を掌握し、フランス政府の資金で運営された。2年の予科と2年の本科に別れ、最初の1年目は中国語で、残る3年はフランス語で教育を行った。院長には、代々イエズス会から派遣された神父が就任し、学部長もすべて外国人神父により占められた。1914年震旦学院はイエズス会の海外の全てのカトリック大学と連携し、国民党政府の教育部長から正規の大学として認定された。1949年新政府が誕生すると、震旦学院はイエズス会の手を離れ、1951年2月1日、大学の委員全員が引き上げ、イエズス会の資金援助は中止された。1952年震旦学院は大学の認定を取り消された。
復旦大学逸夫科学館
現在の復旦大学(邯鄲路220号)の正門を抜けると、正面に10mを越すどでかい毛沢東の像が立っている。左側にはより小型の陳望道(共産中国成立後の最初の学長)の像もある。だが不思議なことに、創立者・馬相伯の像はどこにもないのだ。彼の名を言っても直ぐには理解されない。馬相伯が心血を注いで作った復旦大学は、上海一の優秀な大学に成長し、2005年に創立100年を祝った。
しかし残念ながら、馬相伯は既に忘れさられてしまったのかもしれない。彼の名前は、単に構内の道の名称に一部残されているにすぎない。
馬相伯(1840-1939)は上海郊外の洒涇で生まれ、若くしてカトリック信者となった。徐匯公学を卒業後、1870年に神学博士号を取った。馬相伯はかって徐匯公学の校長として、行政管理全般を引き受けた。また日本で清朝政府の在日本中国大使館参事官となり、“洋務運動”にも参加した。彼は欧米を訪問した、中国は科学を発展させ、産業を興す必要があると実感し、大学設立を決意した。
宋慶齢陵園の馬相伯
1913年かれは北京大学校長代行を務め、九・一八事変(満州事変)により日本の中国侵略が始まると、一致団結した抵抗運動を呼びかけた。
1932年には宋慶齢とともに“中国民権保障同盟”を組織し、1937年には国民政府委員に選ばれた。
1939年冬、ヴェトナムの諒山で病死すると、毛沢東初め多くの革命家が彼の家族に弔意を示した。
1949年新国家が誕生すると、上海市政府は馬の棺をヴェトナムから移送し、上海の宋慶齢陵園に埋葬した。私は陵園に詣で、改めて彼の墓の前で心からの敬意と心服の情を彼にささげた。
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