ヘボンと美華書館上海歴史、発見!
ある時、北京や上海で長く仕事をしておられた大手商社の方が上海に来られて、私が上海の歴史的建物をご案内することとなった。半日の視察が終わると、彼は私に「ヘボンが上海にいたそうですが、本当ですか?」と尋ねられた。私は「聞いたことがありません。私が知る限り、今までに上海でヘボンの足跡について話題になったことはありませんでしたから。」と答えた。
ヘボンとは、明治維新のころ米国から日本にきた宣教師で、明治学院大学の創始者の一人・James Curtis Hepburn のことだ。我々は今も自分の名前やその他の日本語名を英文表記する際、ヘボン式表記方を基本としている。島根の「し」は SI ではなくSHIと書くのは、正にヘボン式表記なのだ。
中国や香港では、林がLin やLum に、呉がWu やNg と地域により違った英字表記になる。日本でそうならないのは、ヘボン式表記に統一されているためだ。
もしヘボンが上海にいたなら、それはとても興味深いことだ。そこで少し調べてみた。すると、ヘボンはわが国で初めて和英・英和辞典を発刊したことが分かった。
我々は中学校から今にいたるまで、英語の辞書のお世話になっている。私は今でも、仕事上英語の辞書なしでは済まされない。その最初の辞書の編纂者がヘボンだとすると、益々興味が沸いてくる。本当にヘボンは上海にいたのか?
更に調べると、当時日本には英字も漢字も活字がなかったので、ヘボンは辞書を上海で印刷しなければならなかったと知った。それなら確かにヘボンは上海にいたのだ!
土徐湾孤児院印刷機
では彼はどこの印刷所で辞書を印刷したのか。私が知っている印刷所は、徐家匯のイエズス会が創設した「土徐湾孤児院」の印刷所だ。当時中国全土で最も進んだ印刷工房であり、ヨーロッパから導入した最新技術で、聖書関連の書籍ばかりでなく各種の学術書を次々に発刊したあの印刷所だ。2010年6月には元の工房跡(蒲匯塘路55-1号)に立派な博物館がオープンしている。しかしここではなさそうだ。ヘボンはプロテスタンの米国長老会の宣教師で、カトリックではない。マカオのプロテスタント系印刷所を使ったのか、答えが得られないまま、数年が過ぎた。
南市・東小門
2010年の夏、上海歴史散歩の会の主催者・片山泰郎氏の紹介で購入した陳祖恩氏の「上海の日本文化地図」を何気なく見ると、何とヘボンは岸田吟香を伴って上海に来て、美華書館で辞書を印刷したと書いてある!更には同じ著者の「上海に生きた日本人―幕末から敗戦まで」には、その間の経緯が更に詳しく紹介されていた。ヘボンが使った印刷所は、美華書館・American Presbyterian Mission Press だった。やっと長年の疑問が解けた。ではその印刷所はどこにあったのか。「日本語活字ものがたり」の著者・小宮山博史氏によれば、それは旧上海城小東門外にあったという。
ヘボン記念碑
ヘボンが日本へ到着したのは1859年10月、横浜開港の年だ。クララ夫人と共にニューヨークを発ち、はるばる喜望峰を回りインド・香港を経由して半年がかりで神奈川に到着した。ヘボン44歳の時で、キリスト教が解禁となる7年も前だ。直ちに、現在の横浜地方合同庁舎のある場所で無料の施療院を開設した。東京日日新聞(現在の毎日新聞の前身)の主筆を務めた岸田吟香は、当時眼病に悩まされていたが、ヘボンの病院で治療を受けたことで完治する。そこで岸田はヘボンの人柄に感化され、ヘボンの目指す日英辞典の編纂に協力することとなった。
清心堂
ヘボンは来日から7年目の1866年10月、岸田吟香を伴って上海にやて来る。恐らくは、1860年に米国長老教会が建てた清心堂(現・大昌街30号)に滞在する傍ら小東門外の美華書館に通い、辞書の印刷と校正に明け暮れたに違いない。美華書館では、当時6代目の館主・William Gamble の開発した明朝体の漢字と英字の金属活字が既に存在していた。日本語表示に必要な平仮名、カタカナは、岸田吟香が版下を書き、中国人彫り師が彫刻した。
清心堂
当時美華書館では、見出しから本文、注記にまで利用できるポイント数の異なる5種類の活字が既に使われていたのだ。特にヘボンの辞書に利用された角寸法3.72mの5号活字は、それまで欧米で金属材に直接彫刻していたやり方に代わり木材に彫刻することで、複雑な漢字の彫刻を容易にし、小型で明朝体の最高峰とさえ言える完成度が高い活字となった。ギャンブルは彫刻刀で逆字で凸刻された木彫活字に電気メッキで母型を作り、そこに活字合金を流し込んで活字を鋳造するという新しい方式を開発したのだ。更にギャンブルは中国人学者を雇い、5万字に及ぶ漢字の中から印刷に必要な漢字を選び出し鋳造したばかりか、文選工が効率よく採字できるよう活字ケースの配置も考案した。
清心中学
明朝体とは、現在我々が利用する印刷表示の基本書体となっているもので、縦線は太く、横線はやや細く端にウロコといわれる三角形が付けられる。従来の毛筆楷書を水平垂直構成にして、点や“はらい”といわれる曲線を定型化した書体である。当時欧米に普及していたローマン字体の英字に相応しい漢字字体として利用された。
清心女子中学
1867年5月、ヘボンと岸田吟香は未製本の印刷辞書を抱えて7か月ぶりに日本へ戻った。ヘボンが編修した辞書の表紙には、「和英語林集成、1867年美国平文先生編譯」と美しい活字で印字されている。平文先生とは、無論ヘボンのことだ。英字表記では、「A Japanese and English Ditionary with an English and Japanese Index」とある。“英和インデックス(目録)付き”とあるが、要は“和英・英和辞典”という意味だ。日本語が縦組みで右から左へ綴ることが当然であった時代に、初めて現代の辞書と同じように左からの横組み表示とした。
和英語林集成
初版の和英部の見出し語は20,772語で、1,200部を出版した。価格は当時としては高額の18両(24ドル相当)で、1両を1万円で計算すると18万円だ。しかし明治維新前の幕府を始め諸藩も争って大量に購入したという。来日からたった7年で、歴史上初の和英・英和辞書を出版したのだ。正に驚くべきことではないか。
明治学院大学
第二版(1872年出版)では、和英部の見出しは22,949語に増えた。1886年出版の第三版から、版権はヘボンの下で医学を学んだ早矢仕有的の創設した丸善商社書店に譲られた。辞書の出版から得られた利益の大半は、明治学院の創設に使われたであろう。ヘボンはその後72歳のとき旧約聖書の邦文訳を完成した。彼の日本滞在は33年の永きに及んだが、1911年祖国で亡くなった。享年96歳だった。6歳だった。
和英語林集成
私がまったく知らなかった美華書館の名は、専門家の間では既によく知られた存在であった。それは日本の明朝体の源流が、美華書館にあったからだ。現在日本で印刷される新聞や各種の書籍の活字は、明朝体を基本としている。我々が使っているパソコンの字も、明朝体が主体である。その明朝体は、なんとヘボンが辞書の印刷に使ったあの美華書館から日本にもたらされたのだ。我々が今も使う明朝体の源は、私が6年も暮らしたこの上海にあった。それを知って私は、驚きと深い感動を覚えた。上海と日本は、これほど深い文化的な繋がりを持っていたのだ。
美華書館と明朝体の歴史
1844年米国長老会(American Presbyterian Mission)は、マカオに印刷所「華英書房」を設立、初代館長として Richard Cole が就任した。彼はその後、美華書館以前に上海に進出していた墨海書館(ロンドン伝道会印刷所)に移り、1851年に漢字4,700字の優れた明朝体の活字(ギャンブルの5号活字より少し大きい4.85ミリの4号活字)を完成した。彼の活字は、オランダ王立アカデミーが採用したことなどで、以後120年間にわたり漢字書体の国際スタンダードとなった。
東門路
美華書館は1845年寧波に移転し、名前を「華花聖経書房・Chinese & American Holly Classic Book Establishment」と改名する。William Gamble はこの印刷所の責任者として、1858年10月に赴任したのだ。1860年10月、印刷所は租界ができて発展目覚しい新興都市・上海に移転する。
当初上海県城の南門近く、長老派の教会・清心堂辺りにあった印刷所は、手狭になったことで、1862年小東門外の水上警察分署(旧フランス租界巡捕十六舗分房)の隣に移転した。残念ながら1950年代に撤去されて、いまは跡形も無い。
北部尋常高等小学校
その後美華書館は北京路へ移転し、1902/3年ごろ北四川路1355号へ印刷工場を新設する。現・四川北路1844号だ。ここは何と、我々がよく知る北部日本人小学校(1917年創立の最初の日本人学校、現・虹口区教育学院実験中学)の校庭のある場所だ。ここから奥の四川北路小学校のサッカー場にかけて、奥行き30m、間口150m、3階建ての印刷工場と牧師館、礼拝堂などが建っていたのだ。私は過去何度この学校を訪れている。上海にできた最初の日本人学校・尋常高等小学校であり、戦前の日本人が建てて今も残る数少ない記念すべき建物だからだ。しかし学校ができる以前に、更に日本と深い関りのある重要な施設がここにあったとは、まったく知らなかった。
鴻徳堂教会
更に、多倫路文化名人街に建つ中華風教会堂・鴻徳堂は、ギャンブルが去ったあと美華書館の管理を引き継いだGeorge F. Fitch が建てたものだった。
富吉堂
2010年8月、私は上海から引き上げる最後の日に、四川北路の工場跡を訪れた。どうしても最後に見ておきたい場所だった。旧上海歌舞伎座跡に建つ現在の永安電影院(四川北路1800号)の脇の小さな通路を抜けると、かろうじてかつての工場跡に残る唯一の建物、レンガ造り2階建ての「冨吉堂」があった。広東省のキリスト教徒が教会として利用した建物は、今は中が四川北路小学校の給食センターになっていた。残念ながらそれ以外に美華書館を偲ぶものは、何ひとつなかった。それでも私は、かつての美華書館の印刷所の場所に立てたことに、心から満足を覚えた。
富吉堂
長崎のオランダ通詞・本木昌造は、ヨーロッパの精緻な印刷物をみて、何とか日本でも同様の活字を開発できないかと苦心していた。そこで1869年、10年間務めて美華書館を辞任したギャンブルを日本に招聘した。ギャンブルは、印刷機と機材、明朝体の活字6,664字を持参して長崎にやってきた。彼は4ヶ月間長崎に滞在し、日本人に活字鋳造法と印刷術を教授した。彼の講習に参加した人々は、その後二派に分かれて、日本での明朝体活字の開発を引き継ぐこととなった。一人は平野富二で、彼は本木昌造の誘いを受けて、東京築地活版製造所を創設し、日本で必要な明朝体活字を追加し、仮名を含めて更に見やすく洗練した活字作りに励んだ。他の人々は大蔵省印刷局の基礎を作り、紙幣局活版部として発展した。
ギャンブルは、一旦上海に戻った後に米国に帰り、エール大学から名誉文学博士号を受け、1887年にペンシルベニアの自分の農場で一生を終えた。56歳であった。
その後の美華書館と商務印書館
美華書館が上海に生み残したものは、もう一つあった。長老教会・清心堂が運営する清心書院(現・上海市南中学―陸家浜路597号)で学んだ卒業生:高鳳池、飽咸昌・飽咸享兄弟、夏瑞芳の四人は、植字工として美華書館で働いた。その後1897年に独立し、資本金3,750元を以って商務印書館を設立した。Fitch が資金援助をしたといわれている。
1907年には閘北宝山路499号に広大な印刷工場を建設。やがて商務印書館は、中国各地に支店をもつ中国最大の印刷所・出版社に発展する。従業員3,600名以上、全国で利用する教科書の75%を出版し、1924年蔵書46万8千数十万冊を擁する東方図書館(宝山路569号)を併設した。
1931年、美華書館は廃業する。商務印書館などの印刷所でより安い印刷が可能となり、美華書館の経営が成り立たなくなったからだ。そこで土地、建物、設備のすべてを従業員の中国人グループに売り渡し、88年に及ぶ中国での活動に休止符を打った。それはちょうど、美華書館が上海に移ってきたことで、1860年ロンドン伝道会の墨海書館が廃業したことと同じ運命を辿ったのだ。
爆撃された商務印書館
中国最大の出版社に成長した商務印書館は、1932年第一次上海事変の際に中国軍の拠点となったため、日本軍陸戦隊の爆撃機に工場を爆破された。更に1937年第二次上海事変が勃発すると、閘北宝山路の工場は再度被災し、壊滅的な被害を被った。こうして美華書館が産み落としたともいえる民族資本の商務印書館は、かけがえのない文化的、経済的な資産の全てを失った。
今も商務印書館は、中国の近代文化史の中で輝かしい名前を残している。トルストイやチェホフなどロシア文学の翻訳を通して多くの若者に影響を与えた茅盾も、当初ここの編訳部に勤め、英語の添削などを手掛けていたのだ。商務印書館の成立と消滅の歴史は、それを生んだ美華書館と日本の明朝体活字の歴史と併せて、私に上海と日本の切っても切れない深い関係を思いおこさせずにおかない。
和英語林集成
現在の商務印書館は、1954年北京へ移転して新しい出発をした北京商務印書館の名前で、小学館と共同編修で出版したに日中・中日辞典などに見ることができる。
日本語活字ものがたり
なお、ここに記した内容の大半は、小宮山博史氏の「日本語活字ものがたりー草成期の人と書体」―誠文堂新光社、から引用させて頂いた。更に日本での明朝体活字の発展に興味のある方は、是非同書を読んで頂くことをお勧めします。
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