全てはチョコレート・ショップから始まった Edgar Snow(中国名・埃徳加 斯諾)の生涯③上海歴史、発見!

第39回 2011年04月

リチャード・ニクソンは語った"貴方の卓越した業績は、既に広範囲の人々から尊敬と感謝を受けていると、知ってもらいたい。

1950年に始まったマッカーシズムの旋風は米国中を席巻し、共産党について報道したり同情的な米国人は、全て迫害を受けた。スノーも迫害を免れなかった。1959年、長い間マッカーシズムの迫害を受けたスノーは、終にスイスに移住した。

米国にいようとスイスにいようと、スノーはずっと中国に関心を持ち続けた。1950年から米国政府は、中国を訪問しようとする記者を威嚇し、旅券を取り上げることで訪問を禁止した。スイス移住後のスノーは、スイス政府に新聞記者ではなく作家として中国訪問を申請したので、ワシントンは彼の渡航を止められなかった。

1960年6月、終にスノーは20年近く離れていた第二の故郷・中国に戻った。この時、4ヶ月に及ぶ中国滞在中、スノーは1936年のソビエト取材の際と同様な情熱を示し、まるで飢餓を癒すように、改めてこの古くて新しい国家の理解に努めた。彼は14省を訪れ、自治区の工場、農村、学校、病院から監獄まで見て廻り、工員、農民、兵士、学生、商人など、最後の皇帝溥儀を含め70名を正式に取材した。

北京に戻った後、スノーは毛沢東に会った。毛沢東は彼に次のように語った、“西欧諸国に次のことを伝えて欲しい。中国は国際間の矛盾を解決するのに、武力を使うでつもりはない。中国は未だ国際連合の一員ではないが、国際紛争には常に平和的手段で当たるのが、我々の確固たる方針だ。だが台湾問題は、私が生きている限り中国の内政問題だ。”

スノーは訊ねた、“かつて陝西省北部にいた時、ミシシッピー川で泳ぎたいと言いましたね。今でもそう思っていますか。”毛沢東は笑って答えた、“ワシントンは私が行くのを歓迎しないよ。”スノーは更に訊いた、“もし彼らが歓迎したら行きますか”。毛沢東は答えた、“もしそうなら、私は数日以内に出かけてゆく。ただし一介の遊泳者としてで、政治の話をするつもりはないよ”

スノーは中国から帰国後、アメリカへ戻る短期間の機会を利用しては、自らアメリカ社会へ向けて新中国についての彼の見解を伝え、米中間の溝を何とか埋める努力をした。

1964年10月から65年1月にかけて、新中国に二度目の訪問をした。毛沢東は彼を中南海の食事に招待した。

二人の旧友の会談の話題は、止め処もなく広がった。しかしスノーの心は、米中間の雪解けをどうやって促進するか、その事が片時も心を離れなかった。席上でスノーは毛沢東に巧妙な質問した、“米国の記者とし私から米国大統領・リンドン・ジョンソンに届ける、何か特別な親書なようなものがありますか”。毛沢東の答えは、“ノー”であった。

しかし毛沢東は言った、“歴史的ないろいろな力が働いて、最後に中米がもう一度お互いを求め合うようになる。そうした日がきっと来るだろう。”

文化大革命が始まると、スノーは中国政府に再度取材のための訪中を申請した。彼の希望は、自らの報道を通じて外の世界に史上例のない革命を紹介することにあった。1970年、終に彼の取材訪問は認可された。(注:彼が文化大革命をとのように理解したのかは、残念ながら明確な記述がない。)

天安門のエドガースノー

天安門のエドガースノー

1970年国慶節に、スノー夫妻は招待されて天安門楼上に上がり、年一度の国慶節の式典に参加した。式典参列後、毛沢東はスノーと5時間に渡る長時間の会談を行なった。毛沢東は言った、“我々は、ニクソンが米国大統領として、または旅行者としてでもいいから、中国を訪問することを歓迎する。私自身が彼と中米関係を話し合いたいと思っている。”この時の席上の話こそ、スノーが20年間待ちに待ったものであった。

同じ年の12月25日、<人民日報>は第1面に天安門楼上の毛沢東とスノーの大きな写真を掲載した。同時に大きな見出しで、“全世界の人々は、米国人を含めてみな我々の友人だ”との毛沢東語録の一節を載せた。

しかし、毛沢東がスノーを天安門楼上に招待したこの重要なメッセージを、アメリカは無視したのだ。当時のアメリカ国家安全事務局次長・キッシンジャーは自嘲気味に語った、“我々西欧の雑な頭では、そのような何分不明確な合図は、全く理解できなかった。”

1971年初頭、スノーはわざわざ米国に戻り、友人を介してキッシンジャーに面会を求めた。しかし当時スノーは、多くのアメリカ人から中国政府側の同調者と見られていて、極めて微妙な立場にあった。そのためキッシンジャーは、彼との会談を回避したのだ。

ニクソン訪中

ニクソン訪中

そこでスノーは、毛沢東との会談の模様を米国の雑誌<ライフ>に提供し、4月末に掲載予定となった。このニュースを先に聞きつけた米国の通信社は、先を争って4月初旬にその概要を報道した。4月9日米国卓球チームが中国訪問の招聘を受け入れた。こうした状況をみて、ワシントンは即座に積極的な反応に出た。4月26日ホワイトハウスの新聞報道官が新聞発表会の席上、ニクソンがいつか中国を訪問したいとの希望を持っている旨を発表した。同年7月9日、キッシンジャーがパキスタンを経由して秘密裏に中国を訪問した。一週間後、中米両国政府は、ニクソンが翌年5月までに訪中する旨を同時に発表した。

その間、米国の主要媒体の多くが、ニクソン訪中の特約記者としてスノーを任命したいと先を争った。何故なら、中国の完全な信任を勝ち得ているスノーが米国の記者となれば、米中首脳会談の内容を直接取材できると確信していたからだ。それは結局、スノー自身が最も重要な首脳会談に立ち会うことを意味していた。

しかし不幸にもこの時スノーは、スイスの病院ですい臓癌の診断を受けており、既に肝臓にも転移していた。

毛沢東と周恩来は、スノーの病状を知ると、即座に医療団をスイスに派遣し、治療のためスノーを北京へ連れてくることとした。1月25日スノーの旧友・ハテムが引率する治療団が彼の家に到着すると、スノーは既に癌の末期症状で、軽度の昏睡状態にあった。

1972年2月初旬、スノーはニクソン大統領の親書を受け取った。それには、“我々は一途に貴方の健康を祈願している。私は貴方に知っていて貰いたい、貴方の卓越した功績は、今既に多くの者の尊敬と感謝を勝ち得ている、”と記されていた。

1972年2月15日明け方、スノーは昏睡状態のうちにこの世を去った。この日は正に中国農民暦(旧正月)の第一日目であった。

ニクソン訪中

ニクソン訪中

スノーが亡くなって72時間後に、ニクソンを乗せた空軍一番機がワシントンを飛び立った。凍りついた両国の関係を溶かす歴史的な旅の始まりであった。ニクソン訪中には72名の大記者団が随行した。しかし彼らの中の誰も、毛沢東の取材を許され、両首脳会談の目撃者として証人となる者はいなかった。

北京大学内スノーの墓

北京大学内スノーの墓

スノーの生前の希望により、彼の遺灰は二つに分けられ、一つは米国(注:ハドソン川河畔)に、一つは彼が働いていた北京大学の未名湖畔に埋められた。

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北京大内未名湖

北京大内未名湖

エドガー・スノーの墓は、北京大学内未名湖の湖畔の小高い丘にある。私が訪れたとき、墓の周囲には、そこかしこに水仙の小さな花が咲いていた。一人の女学生がそれを摘んでは、スノーの墓に捧げているのをとても印象深く覚えている。スノーはいまも人々から愛着をもって慕われているのだ。

追記:
Edgar Snow の著書には、中国の赤い星=Red Star Over China (1937年)の外に、アジアの戦争(1941年)、ソビエト戦力の形態、中国・もう一つの世界(1962年)がある。

Helen Foster

Helen Foster

Edgar Snow はニム・ウエルズ(ヘレン・フォスター)と1949年に離婚。ニムは離婚後、故郷コネチカット州に帰り著作活動に専念。回想記<中国に賭けた青春―エドガースノーと共に>を書く。また<アリランの歌>の著者としても知られる。1997年死去。

ジョージ・ハテム(George Hatem)中国名:馬海徳、Ma Haide。1910~1988.ニューヨーク州バッファローで貧しいレバノン系移民の子として生まれる。University of Geneva で医学を修め、1933年開業医として上海に来たが、国民党の腐敗に嫌気がさし廃業する。

1936年Edgar Snow の知己を得て、延安に同行する。「中国の赤い星」第1版では、彼自身の要望から“Western Trained Doctor”とのみ紹介され、明確な記述が避けられた。その後は毛沢東の個人医師となり、最初の共産党員となった。

1949年、共産中国が成立した後も医者として中国に留まり、短期訪問以外は米国に帰らなかった。らい病と性病撲滅に尽くしたことで、Lasher Medical Award を受理した。

George Hatem博士の墓

George Hatem博士の墓

毛沢東に模範的共産党員として持ち上げられたベチェーン(Henry Norman Bethune)と異なり、本を出したり思想を公表することは少なく、もっぱら患者の治療と社会的医療体制の改善に力を注いだ。死後は北京の八宝山革命墓地に葬られている。

皖南事件(かんなん事件):1941年1月安徽省南部で起きた国民党軍と共産軍との武力衝突。抗日戦線のため国共合作を掲げるなかで、黄河以南に勢力を伸ばした共産軍8,000は、固民党軍2万に包囲され、多大の死傷者を出した。

島根 慶一

島根 慶一

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