東亜同文書院上海歴史、発見!

第55回 2020年04月

 赤坂2丁目の東亜学院と飯田橋にある日中学院は、共に中国語教育の名門である。日中学院は1951年、戦後いち早く倉石武四郎が神田の東方学会ビルで始めた中国語講習会を起源とする。1961年には、1938年満州国皇帝・溥儀の訪日記念として設立された満州国留日学生会館(戦後善隣学生会館と改名)に移転、更に1985年ここが日中両政府と財界の資金で日中友好会館として生まれ変わると、「日中学院」となり、以来中国語教育の長い伝統を誇っている。隣接して中国人留学生寮と後楽賓館(ホテル)を備え、日本人に中国語を、中国人に日本語を教える極めて優れた施設となっている。

 一方或る時、私は東方学院の歴史を調べて驚愕した。東亜学院は、財団法人霞山会が経営する学校兼アジア研究センターで、霞山会は戦前「東亜同文会」と言った。更に東亜同文会は、戦前上海にあった「東亜同文書院」の経営母体であると言う。上海に置いてきた忘れ物が、突然東京で見つかったような不思議な感覚を覚えた。東亜同文書院とそこから育った多くの人材は、満州国建国と日中戦争の歴史の狭間で、時折チラリと姿を見せるが、けして歴史の表面に出てこない。そこで改めて調べてみる気になったのだ。

 1898年東京神田に東亜同文会が設立される。日中が共に友好的に発展することで欧米列強の侵略を防ぎ、アジアの平和と繁栄を築くことを目的とした。会長は近衛篤麿伯爵・貴族院議長(終戦時の内閣総理大臣・近衛文麿の父)である。
 設立メンバーには、荒尾精や岸田吟香(画家・岸田劉生の父)、根津一などがいた。荒尾は1890年上海に「日清貿易研究所」を設立すると共に、「清国通商綜覧」を書き、清国と貿易する際の実務的な手引きを著した。それを纏めたのは、根津一であった。岸田吟香は、ヘボンが日英辞典を印刷するため上海に来た際に同行し、1878年ヘボンが開発した目薬・精錡水を販売するため、上海に「楽善堂」を設立した。日清戦争後、彼らは所属する同文会と東亜会を統合することで、「東亜同文会」として即戦力となる実務家の養成を目指した。それは、明確な思想と確かな方針を持った一大プロジェクトであったのだ。

 1900年、南京に同文書院が設立される。それは清朝両江総督・劉坤一の要望にも沿うものであった。日清の協力により、清国の保全と東亜の安定を図ろうとしたのだ。だが1901年義和団事件が発生すると、動乱を避けて上海に移転、上海南市(現・黄浦区)高昌廟桂墅里に「東亜同文書院」を設立し、本格的な学校運営に乗り出す。院長には根津一が就任した。

 

 教科は商務中心で、日中間の貿易実務から会計学、簿記、金融論、民法、商法、金融貨幣論、支那法制史、支那経済史など充実した3年間の英才教育が施された。特に重点を置いたのは、基礎となる実践的な中国語(北京語)学習であった。学生は各都道府県と満州、朝鮮、台湾から派遣される「県費生」と「私費生」で、いずれも数十倍の難関を突破した優秀な人材であった。費用は教育費から寮費、小遣いまで全額支給されたので、特に経済的に困窮する家族にとって、帝国大学や海軍兵学校、陸軍士官学校と並んで憧れの的であった。
1907年、後年伝統となる卒業生による第一回支那調査旅行を実施する。これは日英同盟締結後、英国からの依頼で、蒙古や新疆へ影響力を伸ばすロシアの実態調査をするものであった。

 1907年、袁世凱の総督就任により清国軍と革命軍の戦闘が勃発、高昌廟桂墅里の校舎を焼失する。仮校舎を経て1917年、上海徐家匯虹橋路に新校舎を設立する。鉄筋コンクリート2階建て、敷地33,000平米、本館、教室棟、南北両寮、食堂、医局、3棟の教職員住宅、運動場、蔵書10万冊を擁する図書館、中華学生棟まで備えた堂々たる校舎である。
1921年、高等専門学校令に基づく外務省管轄の4年制専門学校に昇格。更に1939年、予科2年学部3年制の大学に昇格した。

 同文書院では、1920~34年にかけて、中国人学生も受け入れた。更に胡適、殷汝耕、頭山満、魯迅などの講義や講演も行われた。日中は戦争をしても、あくまで中立の立場で支那と協和提携することを目指したのだ。1926年~1931年には、近衛文麿が院長を務めた。だが日中戦争の影響は免れず、満州国が成立した1932年、第一次上海事変が勃発、書院は一時長崎に避難する。1937年日中戦争が始まると、即第二次上海事変が勃発、虹橋校舎を貴重な蔵書と共に焼失し、近くの上海交通大学を接収して授業を続けることとなった。終戦間際の第46期生は、連合国の海上封鎖により上海に渡れず、富山県の旧呉羽紡績工場の一部を校舎として学んだ。終戦により上海交通大学が中国政府に返還されると、国民党の運営する南京大学に通っていた江沢民は、3年生から上海交通大学に転校したのだ。

 1930年学内でも中国共産党青年団が結成され、反戦ビラを配布したことで、8名の学生が検挙される。続いて1933年にも共青の学生が検挙された。1937年学校側の強い抗議にも拘わらず、軍の方針に従い学生の通訳派遣が始まる。1943年からは学徒動員令が下され、学生80数名が出兵する事態となった。
書院の母体である東亜同文会は、日本政府の援助を受け、書院も外務省の管轄下にあった。書院の院長、副院長の人事権は同文会が持ち、外務省機密費も投入されていたといわれる。日中戦争が激化する中で、書院だけが中立を守ることは、土台不可能であったのだ。
「朝上海に立ちつくす」(大城立祐著、中公文庫)には、軍から「軍米収買」に通訳として駆り出された学生が、引率した兵隊が上海郊外でタダ同然に農民から食料を強奪するのを見て絶句する姿が描かれている。書院の教育理念と現実の乖離が日増しに大きくなり、書院も学生も混迷を深める中で、終戦を迎えた。

愛知大学の設立

 終戦と共に、東亜同文会の会長・近衛文麿は、総理大臣として戦争責任を問われ自殺する。東京の東亜同文会ビルもGHQに接収され、東亜同文会は解散に追い込まれた。
だが一方の東亜同文書院では、書院の存続をかけた戦いが始まっていた。終戦時の院長・本間喜一は、消滅した東亜同文書院の過去5000人の学籍簿と成績表を日本に持ち帰り、大学の再建を図った。東京の同文会がGHQに接収される前夜、呉羽分校に残っていた学生たちは、同文会が所持していた東亜同文書院の関連書類、中国関連資料、35000冊の蔵書などをトラックで運びだした。更に戦火に焼け残った古本1万冊を購入し、新たな大学の成立に当てた。新しい大学は、1946年「愛知大学」として認可された。それは正に、上海の東亜同文書院が豊橋の地で蘇った姿であった。
愛知大学には、もう一つ逸話が残っている。東亜同文書院時代、よい中国語の辞典がなかった。そこで学習上の必要から、同文書院は「華日大辞典」の編集準備を進めていた。だが終戦時、5箱の木箱に収められた14万枚の語彙カードは、すべて中国軍に押収されてしまう。戦後赤十字を通じ返還交渉を行い、最後に周恩来の英断を得て、郭沫若が返還作業を行った。1968年念願の「中日大辞典」は完成し、中国側に5千冊を寄贈したという。これを期に周恩来の生地・天津の南開大学に「愛大会館」が設立された。

東亜同文会

 東京の東亜同文会は、戦後「霞山会」として蘇生し、新たな歴史を刻むこととなった。東亜同文会の事務所は、元来都内の一等地・千代田区霞が関3-4の「東亜同文会館」にあった。1928年に建設された会館は、近衛家から寄贈された東京目白の土地を売却した資金で建設された。1948年霞山倶楽部が設立され、1958年には「霞山会」と改名した。1964年には、赤坂2丁目に赤坂東亜ビルを建設、日本とアジア諸国、特に中国との文化交流を通じて、アジア諸国民との相互理解と友好促進を図ることとなった。1967年赤坂東亜ビルが建設されると、ビル内に「東亜学院」設置し、中国語教育を、2000年からは中国人用の日本語学校も併設された。
元の東亜同文会館跡は官民合同の都市再開発プロジェクトにより、「霞が関コモンゲート」となった。その西館(霞山会ビル)には、霞山会と愛知大学事務所が入り、37階は往年の東亜同文会館ファサードを模したレストラン Peony もあるのだ。

 東亜同文書院は、多くの中国通、中国専門家を育て、日本に於ける近代中国学の基礎を築いた。卒業旅行として実施した大陸調査は、清国から民国初期に関する中国社会変遷の貴重な研究資料を残した。西所正道著「上海東亜同文書院風雲録」には、中国人留学生や研修員の受入れに奔走した菅野俊作や小泉清一、日中貿易推進に邁進した大久保任晴(日中経済協会専務理事)、坂口幸雄(経団連常務理事)、春名和雄(日中経済協会副会長)など、戦後日中文化・経済交流に尽力した卒業生の活躍が記されている。事実、学者・研究者から官界、政界、財界に至るまで、優れた卒業生をきら星の如く輩出したのだ。こうして東亜同文書院は、日中の文化交流や友好関係の構築には多大の寄与をしたとの評価がある一方、中国側からは、中国侵略の先兵を務めたと厳しい批判に晒された。こうした批判に答えるためにも、総合大学に成長した愛知大学と共に、東亜学院の今後の発展に益々期待が高まる。比類ない歴史と遺産を携えた同組織こそ、新しい時代の日本とアジア諸国の関係を追及するのに相応しい組織に違いないと考えている。

島根 慶一

島根 慶一

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