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上海歴史、発見!

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第1回

私は文学部出身の旅行やですので、どこへ行ってもその土地の歴史や文化に人一倍興味を持ちます。

4年前上海に来て、「上海歴史マップ:木之内誠編著、大修館書店」を片手に、暇をみては上海を歩きました。片山泰郎氏の主催する「上海歴史散歩の会」にも、なんとか入れて頂きました。そこで上海が、正にアジアの近世から現代に通じる生きた歴史の町だと実感したのです。

一方日本からの訪問者は、大半30、40元の団体メニューで食事をし、豫園、新天地、外灘の夜景を見て終わり。「上海は観光的に見るべきものがない」と言うのが定説になっています。

これでは余りに上海の実像と違いすぎるではないか。旅行業者として、もう少し溢れる上海の歴史的な魅力を紹介する必要があるのではないか。これが今回このコラムをお引き受けした理由です。

上海は、特に日本人にとって、中国の、いやアジアのどの都市とも違う特別な意味を持っています。ではどう違うのか。中国の二大観光地、北京と西安と比べてみましょう。

北京は、現在政治の中心であると共に、明、清の歴史を残す町です。西安には、秦や前漢、唐の歴史的遺産が溢れている。それらは中国人の偉大な歴史遺産であり、人類共通の過去の遺産です。

しかし上海は、私どもの父親や爺さんの個人史にも繋がる、今も生き続ける歴史の街だ。日本は戦前、いい事も悪いことも含めて、上海とは深い関係を有していた。かつてここには、10万人もの日本人が住んだ。第一次・第二次上海事変と2度の市街戦を行なった。1940年~43年にかけて、租界を接収し、終には45年の敗戦という破局を迎えた。

少しの興味と知識があれば、上海は超近代都市の影に隠れた、生生とした過去の歴史を語り始める。上海はそうした歴史の現場を、今も数多く残している。現在ここで生活するうちに、ふと顔を出す過去の歴史の興味深い一コマを、少しでも皆様と共有できたらと言うのが、私の希望です。はたして皆様に興味をもって読んで頂けるのか不安ですが、これからご一緒に、この興味深い上海を探検したいと願っています。皆様の周囲で気が付いた歴史の事実を、私にも是非教えて頂きたい。

上海の歴史は、1843年阿片戦争に負けた清朝政府が、上海を始め5港を開港したことから始まった。キャプテン・バルフォアが、山のような荷物を船の甲板まで積み上げて、最初の英国領事として泥だらけの、どぶ川が縦横に走る外灘にやって来た。その時、町は豫園を中心とした上海城しかなかった。それ以前は、揚子江のデルタ地帯に徐々に土砂が堆積され、上海という田舎町が形成されてゆく歴史以前の歴史しかない。そこで上海の歴史と言えば、租界が出来て以降の、ここ150年間のことである。

中国と正式な領土の租借契約もないまま、植民地の拡大を図った列強は、やがてどの国にも属さない、Tax Payer が統治する都市国家のような租界を作り上げた。社会的、経済的な規制の無い、どんなことも許される無秩序な環境の中で、世界中から集まった一騎当千の野心家たちが遮二無二金儲けに邁進した結果、上海は日本も遠く及ばない、アジアの国際化の最先端を走ったのだ。彼等の築いた巨大な実績は、いま外灘の建物群に垣間見ることができる。

中国の工業化は、上海の繊維産業から始まった。しかもその約半分は日系企業が担った。そこで生まれた労働者階級と労働者意識は、やがて共産党を生み、社会改革から革命へと突き進んだ。内外綿などの日系工場は、抗日運動の発火点となった。

欧米の植民地政策を後追いした日本の侵略は、それまでの欧米とは桁違いの大規模な軍事行動を展開したことで、中国の民衆に始めて民族の国家意識を目覚めさせ、日中戦争を経て、今日の中国国家建設へと繋がった。

魯迅を始め多くの中国人が戦前日本へ留学し、その後抗日運動、革命運動に身を投じた。現在の中国国歌は、元来映画の中で歌われた「義勇軍行進曲」で、激烈な抗日運動の歌だ。作詞家の田漢は以前の東京師範・東京教育大学に学んだ。作曲家の聶耳は国民党に追われて日本に亡命中、藤沢の海岸で事故でおぼれ死んだ。

こうした歴史の流れを背景に、次回から上海の街角に残る過去の興味ある物語を拾い上げて行きたい。皆様のご協力をお願い致します。

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