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上海租界は、競馬場と共に発展した。

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第2回

第1回では、つい堅い話になってしまいました。そこで“堅い話”のついでに、今回は前回触れた租界の成り立ちについて、お話ししたいと思います。

上海土地章程(憲章)

上海土地章程(憲章)

第一次阿片戦争の結果、清朝政府が英国と南京条約を締結したことで、1843年船長バルフォアが最初の上海駐在英国領事として泥だらけの外灘にやって来たことは、前回お話ししました。

南京条約は、貿易協定を結ぶための初歩的な原則を規定するだけで、土地の賃借、外国商の商品倉庫や家族のための住宅建設について、何ら規定がなかった。そこで、バルフォアは上海道台(地方行政長官)宮慕久に圧力をかけ、外国人専用の居住地域を設定するよう迫った。

2年間の交渉の結果、宮慕久とバルフォアは1845年11月29日「上海土地章程」(憲章)を締結した。それにより英国商人の居住地は外灘地区から拡大され、北は季家場(現、北京東路)、南は洋涇浜(現、延安東路)、東は黄浦江、西は河南路の830畝(アール)の地域と発展した。そこは“十里洋場”と呼ばれた。

外灘の発展は競馬場から始まった

外灘の発展は競馬場から始まった

「上海土地章程」が締結された年の末には、住宅11戸が建設され、外国企業23社が設立された。初期の段階で外灘に来た外国人は、大部分屈強な肉体の独り者で、一旗揚げる目的で上海に来た勝負師だった。彼らは有り余るエネルギーのはけ口を競馬に求めた。

1850年、海外企業の大班(社長)達は上海跑馬総会(Shanghai Horse Race Society)を設立し、現在の南京東路と河南中路の交差点に最初の競馬場を建設した。馬場は東の外灘から河南中路に至る500mの距離に設定された。80アールに及ぶ馬場の中央には多くの木々や花が植えられたので、外国人はここを Garden と呼んだ。そこで外灘から河南中路に至る道路は“Park Road―派克路”と呼ばれた。これが現在の南京路である。一方上海人は外国人が馬場で競馬をするのを見て、そこを“馬路”と呼んだ。

競馬場周辺は、租界でも最も賑やかな所となった。スポーツと娯楽はここに多くの消費をもたらし、近くに店が次々にオープンした。この時代英国租界の人口はたったの500人、中国人は夕暮れ前に上海県城に戻らねばならなかった。

土地バブルと租界の拡張

土地バブルと租界の拡張

中国人と外国人の分離は1853年に崩れた。この年の9月、上海県城内で小刀会の蜂起(満州族による清朝支配を覆し、華人政府を作ろうとする運動)が起こり、多数の住民が租界に避難してきた。そのため租界の人口は500人から2万人に膨らんだ。人口急増の結果租界の土地の値段は急騰した。そこで経済的な利益を求めて、Park Road は10年間に3度も西方へと延長されることとなった。

最初の道路延長は、小刀会蜂起の2年後に起きた。競馬会の理事は、短期に巨額の収益を得られるチャンスと見て、最初の競馬場を元の数倍の値段で売却し、西蔵路と湖北路の間に2番目の競馬場を作った。Park Road は現在の浙江路まで延長され、路面は石灰と砕石で舗装された。この幅7.5mの道路は“Great Road―大馬路”と呼ばれた。

この時代、福州路、広州路には上海県城からの難民が集まったため、Park Road より遥かに賑わった。これら難民は茶館、烟館、妓院、賭博場など様々な店を開いたので、福州路と広州路は一時期 Park Road より遥かに賑わいを見せた。

1862年李秀成が太平天国の反乱軍を率いて上海を攻めると、更に多くの難民が租界に押し寄せ、その結果租界の中国人人口は50万に膨れ上がった。土地の値段は急騰し、競馬協会の理事は再度棚ぼた式のぼろ儲けのチャンスを手にすることとなった。彼らは第二競馬場を売り払い、第三競馬場を現在の人民広場に建設した。Park Road は2度目の延長計画を完了し、西側は西蔵路まで延びた。路面舗装は玉砂利に変わり、道路幅も7.5mから15mに拡張された。

不動産売買の波が租界に津波のように押し寄せた。中でも外灘とPark Road の土地の値上がりが最も激しかった。例えば、1852年から1862年の10年間の値上がり幅は200倍にもあがった。上海の商業中心は、上海県城からPark Road に移った。

Park Road の3度目の拡張工事は1865年に行なわれた。工部局は戦争に備えてPark Road と泥城浜の間に軍事道路(現、西蔵路)を建設した。この際 Park Road は静安寺まで延長された。

1865年、租界当局は彼らに巨額の利益をもたらした南京章程を記念して、Park Road を南京路と改名した。だが一般の人は相変わらず南京路を“大馬路”と呼び、九江路、漢口路、福州路、広東路をそれぞれ、二馬路、三馬路、四馬路、五馬路と呼んでいた。

南京路の近代化と発展

南京路の近代化と発展

上海が開港された初期の時代、南京路の主要な乗り物は輿(Sedan Chair)であった。1874年には日本から人力車が導入された。自動車が発明されて15年経った1901年に、ハンガリー人 Leineが上海に初めて2台の自動車を輸入した。

1908年3月5日、南京路に新たな乗り物が登場した。上海初の鉄道(市電)である。しかし上海人は誰もそれに乗る勇気がなかった。何故なら当時の人力車協会が自分たちの利益を守るため、市電に乗った者は誰でも感電して死ぬと宣伝したからだ。そこで英商電車公司(British Railroad Car Corporation )は大々的な市電開通式を計画し、24名の著名人や有力者を招待して、市電に乗せた。彼らは市電の窓辺に立ち、運転中元気に楽しげに談笑したことで、誤った噂は自然と消滅した。市電の成功は、この時代南京路が世界で最も進んだ交通手段を持ったことを意味した。

電話は1881年、世界に始めて登場して数ヶ月後に南京路に持ち込まれた。1882年7月、最初の街灯が南京路に灯った。市電が走った同じ年の1908年に、中国最初の電動エレベータが南京路の匯中飯店(Palace Hotel、現、和平飯店南楼)に据えられた。

南京路の近代化と発展

南京路には街灯が灯ったが、歩行者と車の衝突事故が多発して、安全とは言えなかった。そこで工部局(SMC)は南京路に歩道を設置し、車道は5.5m、歩道は1.2mと規定した。こうして南京路は、歩道と車道を分離した中国初の道路となった。同時に始めて交通規則を定め、車と輿(Sedan)は車道を、そして左側通行を守るよう規定した。しかし工部局が定めた規則のあるものは、中国人に対する多くの差別を含んでいた。例えば中国人の乗る車は、外国人の乗る車を追い越してはならなかった。

租界の行政管理機関・工部局と軍隊の設立

租界の行政管理機関・工部局と軍隊の設立

1854年第二次土地章程が成立すると、租界はいよいよ恒久的なものとなった。同時に英米仏三国は租界を管理する最高行政機関として工部局(SMC=Shanghai Municipal Council )を創設した。

また、太平天国軍が上海に迫まると、1854年工部局万国商業団体は、租界の防衛のため義勇軍(SMC International Volunteer Corps )を組織した。国際義勇軍は実際には工部局軍隊で、会員は主要外国企業のビジネンスマンであったところから、国際義勇軍と呼ばれた。1880年代以降工部局の財政が豊かになるに従い、国際義勇軍の警察業務は大きく拡大された。工部局は増え続ける財力と軍事力を使って清朝政府に譲歩を迫り、次第に彼らの力を排除して行った。こうして工部局は当初の地方自治機構から、独立した行政統治権を持つ最高の行政機関に成長して行った。租界は中国内の別の独立国となったのだ。

租界の行政管理機関・工部局と軍隊の設立

工部局は南京路の市政庁で年に2度董事会を招集した。董事会は工部局の最高決議機関であった。董事会メンバーは、外国企業の大班か、富を求めて上海にやって来た外国人移民の利益代表であった。そこで工部局が定める法律制度は、外国人企業家が最も活動し易く、彼らが上海に強固な経済基盤を築けるように作られた。また殖民者のために各種の障害を廃除し、彼らが巨万の富を蓄積する手助けをしたのだ。同時に工部局は、上海を世界に羽ばたく国際都市に押し上げる原動力ともなった。

1949年5月27日、解放軍の陳毅将軍(彼の大きな銅像が外灘を睥睨している)が国民党を破って上海市を解放した時、最初に解放軍の旗を掲げたのは、この工部局の建物であった。その時の大きな写真が、1階の階段踊り場正面に飾ってある。入口に毛沢東の写真を飾り、屋上にも解放軍兵士が立ち、屋根の上高く翻る解放軍旗が映っている。正に歴史を記す記念の一枚である。

その後市庁舎が外灘の現東浦発展銀行の建物に移転する1955年まで、ここは上海市人民政府の市庁舎として使用された。

現在、ウエスティン・ホテルのすぐ近く、漢口路193号に建つ古色蒼然とした花崗岩4階建ての建物は、市政府の労働局などに利用されている。1921年竣工のこのルネッサンス古典様式の古ぼけた建物が、かっては共同租界の最高行政管理機構として外灘に君臨していた過去を知る人は少ない。(1865年フランス租界は独自に上海フランス公董局を設立して分離独立した。)

玄関のガードマンに阻まれて中に入れないが、是非一度中を見たいと願う者は、私だけではないであろう。上海の土地バブルは租界の歴史と共に始まり、租界の発展は、競馬場と共に始まったのだ。

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