上海花園飯店と旧フレンチ・クラブ②

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第7回 2007年7月

科学会堂

前回は、上海花園飯店のお話を掲載いたしました。今回は、初代のフレンチ・クラブが別にあったお話をさせていただきます。

花園飯店の旧ドイツ・クラブがフレンチ・クラブになる前に、初代のフレンチ・クラブが別にあったのです。それは今も復興公園(旧フランス公園)の北の南昌路47号に現存しています。即ち、フレンチ・クラブは復興公園の北の初代の建物から、花園飯店へと移転したのです。

初代フレンチ・クラブは、フランス租界の産業省が1914年に建てたものでした。赤い屋根瓦にクリーム色の壁を持つ2階建ての庭付きの建物で、現在は科学会堂として中国人科学者の社交場となっています。近くに新しい科学会堂のビルが建ったことで、残念ながら、この古い歴史的な建物を知る人は極めて稀になり、南昌路の風景の中に忘れ去られたように、埋もれています。

科学会堂庭園側正面入口

南昌路からフレンチ・ルネッサンス様式の外見はみえませんが、中庭から見ると、左右に広がる建物の中央テラスの上部に時計台があり、フランスの鉄道駅のようにも見えます。
それは何十もの部屋を持つ壮大な建物で、南側に6千平米の広い庭園を伴っています。そこに樹木と芝生を適切な割合で配置したことで、この建物の大きさは和らげられ、こじんまりとした居心地のよい大きさに見えます。しかし実際は極めて大きく、目指す部屋を探すのが難しいほどです。建物の装飾は飾り気が無く、実に品がいい。まるで古い大学の校舎のように、どっしりとして威厳があり、ぎしぎしと軋む木製の廊下を歩むと、1910年代の昔にタイムスリップをしたようです。

科学会堂ステンドグラス

この歴史的な建物は、今も会議場として極めて廉価で借りることができます。広い建物のあちこちでは、いまも時折、科学研究会や講演会が行われています。
会堂の壁にはどこも良質のチーク材がふんだんに使われています。栗色の木製の広い階段を2階へ上がって行くと、途中、窓辺に広がる1918年と記された豪華なステンドグラスに目を奪われます。そこには一本の木が、満開に咲く真っ赤な花を着けて色鮮やかに、生き生きと描かれています。それは、1918年に設立された徐家匯の土山湾孤児院(Orphelerat de T’ou-Se-Ve)の子供達の手になるものでしょう。上りきった2階の左右の壁には、アールヌヴォの見事な幾何学模様の壁画が描かれています。

アールヌボーの壁画

当時ここでは、多くの社会的な公式行事や舞踏会、カクテルパーテイや展示会、またビリヤードやテニスなどのスポーツが行われました。1926年にフレンチ・クラブが花園飯店に移転して後は、この建物はフランス人学生の公立学校(Ecole Municipale Francaise)となりました。租界の住人の子弟で、フランス式の教育を望む者は、誰でも入学できました。フランス人の他に、白系ロシア人、少数だが中国人の子弟もいました。学期の終わりには、学業成績とスポーツの表彰式が行なわれ、フランス領事、警察庁長官、租界の歩兵将校が制服姿で参列しました。

ここは、建物の規模と役割からして、隣接する旧フランス公園と共に、旧フランス租界の最も重要な公共の建物であったでしょう。南昌路に面して、昔レストラン・鮮窗房のあった場所には、クラブ所属の4レーンのボーリング場がありました。また現在、上海青少年体育訓練場の体育館となっている所は、大きなダンスホールでした。

5月1日、花園飯店のグランンド・ボールルーム(百花庁)は、叶さんの結婚披露宴に参加した100名を越すお客様で埋まりました。華やかな祝辞、笑い声、幸せでますます丸くなった叶さんの顔と、感激の涙に咽ぶ新婦・厳さんの顔がありました。

しかし華麗に生まれ変わったオオクラ・ホテルと違って、初代のフレンチ・クラブを思い出す人は、いなかったでしょう。かつてフランス人が集まって芝生の上で球技を楽しみ、元気な子供達の声が教室中に響いていたあの日々は、もう帰ってきません。今はただ、古色蒼然とした建物が残り、昔の物語を語りかけているだけです。いま科学会堂といえば、人びとは南昌路と思南路の角にある新しいビルを思い出すでしょう。しかし、静かな佇まいを残す南昌路を散策する際には、是非、初代のフレンチ・クラブを探してみて下さい。中に入るのは難しいですが、催しものの参加者に紛れてこっそり入ると、いまも壮麗な建物、目を奪うステンドグラスの窓、印象的な天井、木製の曲線階段が、訪れる者に過っての威光を垣間見せてくれます。

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