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百代小紅楼・La Villa Rouge

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第10回 2007年10月

全景

徐家匯の喧騒を離れて、深々と生い茂るプラタナスの並木に沿って衡山路を歩くと、徐家匯公園の静かな一角(衡山路811号)に、一軒の古風な赤い建物が見える。それは、“百代小紅楼”として知られるフランスのレコード会社、パテ・マルコニ(百代唱片公司中国総部―Studio Pathe)の建物であった。パテは中国語で百代と表記された。中国のレコード音楽はここから始まったのだ。

パテは中国のレコード業界とレコードプレーヤーに大きな影響を与えた。パテは1908年に中国市場に参入し、解放前の中国で、最初で最大のレコード会社であった。

百代のプレート

パテのルービンセンは、エジソンが発明した蓄音機を設置し、1回10文でレコード「洋人大笑」を聞かせた。1915年には唱片製造公司を設立し、中国で始めてレコードの生産を開始した。

パテの事務所は、当初南洋路(現在の西蔵南路)にあって、レコードとプレーヤーの販売を行っていたが、1921年に徐家匯に近いこの場所に移ってきた。中国人顧客を開拓するため、著名な京劇俳優のレコードを作り、雄鶏マークを付けて販売した。
しかし1934年、パテのパリ本社が倒産すると、パテ・マルコニの上海支社は英国の会社EMIに吸収され、EMI東方百代唱片公司となった。百代の名称は、社名の一部に残された。

歌手の写真

EMI時代には、ここでキラ星の如く多くのスターが活躍した。その中には1930年代“黄金の声―金嗓子”と渾名された周璇や、同じく有名な歌手・龚秋霞、中国国歌を作曲した作曲家聂耳(にあーる)がいた。聂耳の作曲になる中国国歌「義勇軍行進曲」もここで録音されたのだ。

百代で多くのレコードを出した周璇は、13歳で舞台に立ち、2年後の1935年、田漢監督の映画「風雲児女―嵐の中の若者たち」に出演した。彼女が映画「馬路天使―街角の天使」の中で歌った「四季の歌」と「天涯歌女」は一世を風靡し、周璇は国中のアイドルとなったのだ。
なお同じく映画の中で歌われた「義勇軍行進曲」は、田漢作詞、聶耳作曲の激烈な抗日の歌であったが、今日中国国歌となっている。

周璇は戦争中もずっと歌手・女優の仕事を続け、1949年新中国成立までに200曲以上のレコードを出し、数十本の映画に出演した。

周璇の写真 サイン

しかし彼女の実生活は、歌手・女優としての華やかな経歴とは異なり、暗く哀れなものであった。1950年代、彼女は破滅的な恋愛事件を繰り返し、無慈悲な男どもに裏切られ、踏みにじられて、精神障害に陥った。1957年夏、彼女は虹橋精神病院に収容され、その後緊急治療のため華山医院に送られたが、1957年9月22日、失意のうちに亡くなった。享年39歳であった。 山口淑子は日本敗戦の3ヶ月前の1945年5月に、上海の人民広場の大光明戯院で日中合同リサイタルを開いた。服部良一の指揮のもと、当時アジア随一の上海交響楽団が演奏したのだ。その際彼女の一大ヒット曲・夜来香などと共に、周璇の持ち歌も多く唄った。周璇は花束を持って駆けつけてくれたと、山口淑子は感謝をもって自叙伝に記してる。

室内

百代小紅楼の優美な建物は、数年前レストランに改装された際に、白とグレーから元の朱色に塗り替えられた。磨り減った木製の床に歩を進めると、古びた家具や皮製の椅子、殆どどの部屋にも蓄音機が備えられ、まるでタイムスリップに陥ったような感覚を覚える。

過去の痕跡は、間違いなく精巧な彫刻を施された階段に、暖炉に、また一階に残された秘密の鉄製金庫に残されている。高さ1.5mの金庫にはパリの住所が記されており、2つの鍵穴を隠す小さな2個の鉄片には、不死鳥が生き生きと描かれている。壁には、額に入った古いLPレコードが飾られていて、ここが中国レコード音楽界の誕生の地であることを思い出させる。階段と照明器具も元通りに残され、保存されている。

南側側面

屋根と外壁は、19世紀後半の典型的なイギリス個人住宅に似ている。しかしこの新古典様式の建物には、フランスとベルギー的な要素も見られる。残念ながら、周囲にあった建物は既に壊され、失われてしまった。多くの人がここは録音スタジオだったと言うが、録音室としては豪華すぎる。EMIの上級職員と管理者の住宅だったのかもしれない。
この建物は1940年代日本軍に占拠されたが、やがて英国人の手に戻され、最終的には1952年“チャイナ・レコード”の上海支店(中国唱片厰公司上海分公司)となり、1982年には、中国唱片総公司上海公司となった。
元来中国唱片厰は、1917年孫文の要請を受けて日中共同で虹口地区大連路(旧大連湾路)に設立された「中華留声唱片公司」が最初である。1924年には、孫文の演説を収録した4枚のレコードを製作した。1927年に日本人との提携を解消し、「中国唱片厰」として独立したのだ。

階段

1949年解放以降は、軍隊や革命に関する多くの歌がここで録音された。1980年代には“紅太陽”と言う、文革(1966~76年)の間に流行った歌を集めたレコードが作られた。中国人にとって、ここは“ミュージック・バレー”とでも言える所で、チャイナ・レコード(中国唱片厰公司)の旧小売部門は、音楽愛好家とレコード収集家にとってまさに天国であった。中国最初のポピュラー音楽雑誌「オ-デイオ・ビデオ世界」もまた、1986年にここで始められた。1995年には張芸謀の映画「上海三人組」のため、中国人女優、鞏俐(コンリー)が彼女の最初の歌をここで吹き込んだ。

南側と庭

Rose Villa は、いまは香港資本の高級レストランで、高い値段のフランス料理が出される。そこで我々には、中々夜は利用できないが、昼間、重厚な革張りのソファーに靠れて味わうリキュールや、古い建物を前に庭で味わうコーヒーは、上海ならではの贅沢であろう。こずえを渡る風の音に耳を傾けながら、夜間照明に照らされて、ほんのり浮びあがる古い建物の歴史に思いをはせる。音楽フアンなら、ここの建物に今もこだます周璇の「何日君再来」や義勇軍行進曲などの歴史的な歌声を、聞き取れるかもしれない。
なお、周璇のサイン入り写真は、駱駝企画室、福井功氏のお許しを得て転載させて頂いた。

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