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太原別荘

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第11回 2007年11月

庭園側

静かな太原路160号に建つ太原別荘は、今は瑞金賓館に所属しており、共に東湖集団の経営するホテルとなっている。部屋数僅か9室で、通常大臣クラスの迎賓館となっているため、空いている場合を除き一般に開放していない。そのため知る人は極めて少ないが、鬱蒼と茂る大きな樹木のある庭に建つ、典型的なフランス荘園領主のような館は、訪れる人を魅了して止まない。小さいがフランス租界の中でも屈指の、最もフランス的な雰囲気を持った別荘と言えるだろう。

階段

このマンサード屋根を備え、ルーフ・ウィンドーを持つフレンチ・シャトーのような別荘は1920年代に造られた。改築時にも殆ど改変されず、チーク材の床や精巧な細工の家紋の紋章盾の付いた暖炉の鉄製飾り、見事なカーブを描く鉄製の階段、食堂と居間を隔てるドアを仕舞うために付けられた黒を基調としたコロマンデル様式(中国で開発された装飾用の漆塗り)の屏風など、今も当時の佇まいを見ることができる。

1階は食堂、及び居間で、今は上海風のレストランとなっている。寝室は2階にあり、二間続きのスイートで精巧な彫刻を施した家具類を備えている。中国風のローズウッドのベッドに沿って、アンテイーク調の2つのクロゼットを配している。広々とした浴室は、白大理石で豪華に装飾されている。 屋敷の外側は車庫に囲まれ、かつて裏の芝生や果樹園、厨房の庭があった場所には、多くの建物が加えられた。しかし庭には木蓮の木が茂り、正面ベランダには鉄製のリース河の花模様の飾りが残されている。残されている。

浴槽

ここは別名、Marshall House として知られる。それは1945年日本軍の降伏以後、蒋介石の国民党軍と共産軍の内戦が激化したため、米国大統領トルーマンは、国共内戦を中止させる目的で最高司令官 George C.Marshall を中国に派遣した。彼はこの家に滞在しながら、延安で毛沢東と会談し、蒋介石軍の東北進攻を止めさせ、4ヶ月に及ぶ休戦を実現した。しかし国共和平工作は結局失敗し、マーシャルは1947年1月、失意のうちにこの優雅な邸宅を後に帰国した。だが4ヶ月に及ぶ国共休戦は、結果的に共産軍の戦線建て直しを助け、その後の共産軍の全国統一へと道を開く大きな分岐点となった。

ところでこの家の初代の所有者は、George C. Marshall ではない。当初の所有者は、フランス人、Maurice Frederic Armand du Pac de Marsoulies 伯爵といった。彼の妻は、virginie Blanche Nee Prpalet伯爵夫人といい、通常 Ginetteと,またその後は “The Merry Widow”と呼ばれた。 彼らはJacquesと Francoise の2人の子供を持つ幸福な家族であった。

入口

伯爵du Pac Marsoulies はフランス政府官吏であったが、1918年に退官して上海にやってきた。彼はここで国際弁護士として新たな仕事を始め、大いに繁盛した。しかし1933年、60歳にもならない彼に、突然の死が訪れた。優雅な別荘とは似ても似つかない、血に塗られたどす黒い歴史があったのだ。

1933年のある日、伯爵は4、5人のフランス人官吏と共に、悪名高い上海ギャング・青帮の首領・杜月笙の晩餐に招かれた。晩餐会は極めて豪華で、心の籠もったもてなしと思われた。しかしその後参加者のうちの3名が、3週間も経たないうちに次々に死亡したのだ。

暗黒街青帮のボス杜月笙は、同じくマフィアの黄金栄から阿片密売会社・三磊公司を引き継ぎ、フランス租界要人への賄賂と麻薬取引にからむ黒い噂があった。彼は1920年代フレンチ・トラムウエイの長期スト解決したことからフランス租界に食い込み、租界警察部長、更に理事の一人として登用された。しかしフランス本国からマフィアとの癒着を指摘されると、租界当局は突然杜月笙を切り、彼の職権とすべての利権を取り上げた。恨みを抱いた杜月笙の復讐劇が始まったのだ。この時相次いで殺されたのは、杜月笙の弁護士も務めていたこの家の主・コムテ・マルスリ伯爵、フランス領事コークリン、ルーセル少佐であった。この事件は、伯爵自身が上海の阿片密売に深く関与していたことを示していた。

未亡人 となったGinette は莫大な遺産とこの家を引き継いで、お客を招待しては優雅な暮らしを続けた。彼女は恐らく羨望からか、“The Merry Widow”とあだ名で呼ばれた。1940年彼女はこの邸宅と家財度具の一切を金の延べ棒220本で1人の中国人に売り渡した。彼はこの家を日本人に賃貸し(氏名不明)、その後米国陸軍将軍 Albert C. Wedemeyer とGeorge C. Marshall が住んだのだ。そこで少なくとも英語圏では、この家は Marshall House として知られるようになった。

庭木

1949年以降、この家は国賓用の迎賓館となり、毛沢東の最後の妻、江青も度々上海へ来た折に滞在した。江青はこの家の地下に防空壕を作り、彼女の大好きな萌黄色の絨毯を敷くことを望んだ。

杜月笙(とげっしょう)

杜月笙の写真

暗黒街・青幇のボス、杜月笙は、上海の Godfather であった。彼は浦東の貧しい家庭に生まれたが、次第にギャング仲間の間でのし上り、遂には頂点を極めた。彼は社会的に賞賛されると同時に、恐れられた。彼はフランス租界の不正な闇取引を管理するためには、結局はフランス人にとって必要な人材であった。彼は闇の世界を管理する一方、自ら巨額の金を蓄えた。一方国民党にとっても、特に日中戦争勃発の時代には、上海を治めるのに彼の助けが必要であった。彼は直接的にも間接的にも、クーリーと沖中氏、運送業の全てを牛耳っていて、実質上上海市の全中国人従業員を支配していたとさえ言える。彼の一言で、町の全活動が停止する事態もありえたのだ。彼は乞食の世界さえ支配していた。乞食は“営業地域”を割り当てられ、所場代を払った。一日の終わりには、杜月笙の子分がやって来て、上がりの殆どを巻き上げた。

マレ区警察署 中匯大厦

当時の紳士録、Men of Shanghai and North China も、杜月笙の怪しげな商売については、一言も触れられていない。彼は単に、資本家、銀行家、産業経営者とのみ記述され、市の重鎮と結論付けられていた。彼は慈善事業を行うことで社会的な賞賛を博した。事実彼は、大変気前が良かった。当然気前よくできたのだ。彼は1929年に地下経済の阿片取引と賭博場の収益を運用資金として、自身の銀行・中匯銀行を設立した。そして1934年、マレ区警察署(延安東路のフランス租界警察本部、Poste Mallet、金陵東路174号)の隣に、11階建ての銀行の本社ビル(中匯大厦-解放後は旧上海博物館となる)を建築した。言うまでも無く彼の銀行は、人も羨む巨額な運用資金を、最低のリスクで運用した。杜月笙親分がやるのだから、当然だったろう。二つの建物がこの様に隣同士にあるのも、フランス租界をつるんで牛耳った、暗い過去を思い出させずにはいられない。彼はフランス租界警察部長として、フランス租界の警備に深い係わり合いを持った。フランス租界の麻薬取引も、両者の緊密な関係の上になりたっていたのだ。彼の写真を見ると、“大耳の杜“という彼のニックネームがよく分かる。共産中国成立後、杜月笙は台湾に逃れ、そこで亡くなった。

太原別荘の優美なフランス荘園住宅を前にすると、コムテ・マルスリの陰惨な事件は、悪夢のように信じがたいものに思われる。しかしそれは間違いなく、上海の歴史が生んだ上海らしいエピソードのひとコマなのだ。

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