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蔡元培旧居

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第12回 2007年12月

華山路案内掲示

蔡元培(1868-1940)の旧居は、ヒルトンホテルの向かいの路地を奥深く入った華山路303弄16号にある。上海の多くの歴史的建物と同様に、賑やかな華山路を通り過ぎる多くの人が概して見過ごしてしまう。華山路入り口の横壁に、蔡元培の肖像と彼の随筆からの引用文が刻まれているが、残念ながらそれに気がつかない。その英国式住宅は、中国の最高学府の一つ、北京大学の初代総長の最後の住宅で、彼は中国の伝統的な教育制度を改革し、新しい教育制度の基礎を築いたことで良く知られている。同時に彼は、中国と西欧の教育理念を融合することに力を注いだ。中国人にとって彼が果たした役割は、古代の哲学者、教育家の孔子に匹敵すると考えられる。

蔡元培故居

そこはいま記念館となっているが、けして華々しい、きらびやかな展示があるわけではない。半地下の狭い室内に飾られた壁の写真は、進士としての彼の人生から、香港で亡くなるまで、彼の偉大な一生を描き出している。それを一つ一つ丹念に辿ると、この偉大な教育者の卓越した人生に胸を打たれる。展示物には、蔡氏と友人たちの様々な写真の外に、蔡がかって使っていたタイプライター、手書き原稿を入れた書類入れなども展示されている。蔡元培は、民主的革命家、教育者であり、教育行政家でもあった。彼は封建制度を打破し、西洋文化を学び、教育文化面から社会改革の実現を目指して、民主的名思想解放運動を推進した最高の教育者であった。今日の中国の教育精神は、ほとんど彼1人の手に成ったといっても過言ではない。

蔡元培は1868年、浙江省紹興府山陰県(現在の紹興市)に生まれた。紹興は歴史上多くの文化人を輩出し、豊かな文化と学術的な雰囲気に溢れる街で、彼は26歳までそこで暮らした。

蔡元培記念館内部

17歳で科挙の秀才に合格、23歳で挙人、25歳で進士に合格した。そこで翰林院編修の官職を得た。それは当時トップクラスの出世コースであった。

1895年、蔡元培28歳の年に中国は日清戦争に敗れた。彼は伝統文化の束縛から脱して西洋文化を学ぶ必要を痛感する。更に1898年、康有為が提唱した戊戌変法が失敗に終わると、官を辞して故郷に帰り、教育の普及と人材育成のため「中西学堂」で教育に専念する。1902年、彼は上海で革命的な教育団体「中国教育会」の会長を務め、また愛国女学校、及び愛国学社の総理を務め、革命運動に即応する新しい人材の育成に専心する。その一方で、1904年光復会(清朝打倒を目的とした運動)を組織し、孫文の同盟会に参加するなど、革命運動にも力を注いだ。

1907年ドイツ、ライプチッヒ大学に留学。哲学、心理学、美術史を専攻するが、1911年、武昌蜂起が起こると、急遽留学を切り上げ上海に戻る。1912年1月、孫文の中華人民臨時政府が樹立されると、教育総長(大臣)に就任した。しかし袁世凱による反革命に反対し、再度フランス留学へと旅立つた。

京師大学堂正面

1916年12月、時の教育総長の要請を受けて帰国、京師大学堂(北京大学の前身)の学長に就任する。彼は以後10年間を北京大学学長として過ごし、陳独秀、魯迅、胡適らを教授に迎えた。彼の在任中、北京大学は女子学生を受け入れた最初の教育機関の一つとなった。また北京大学の学生は、1919年日本が中国に押し付けた日華21か条に反対する「五四運動」の中核となった。北京大学は、封建主義反対、新思想の普及を目指して、全国の思想文化に大きな影響を与え、後年共産革命の原動力となる幾多の人材を輩出した。始めて湖南省から上京した毛沢東は、ここの新聞閲覧係りとして働いた。給与支給記録として、学長・蔡元培600元、毛沢東8元の記録が残されている。京師大学堂(北大紅楼)はいま、北京新文化運動記念館として一般公開されている。場所は現在の北京大学とは違って市内の近い所にあるので、北京では是非訪れたい歴史的な箇所の一つである。正に現代中国の揺籃地だと思っていい。

蔡元培は教育と政治は無関係だとして、教育独立論を唱えたが、旧勢力の様々な圧迫に会い辞任。上海に戻り、1928年中国科学研究の最高機関・国立中央研究院の院長を務めた。彼は上海音楽学院の創始者であり、フランス租界の最高学府、オーロラ大学の設立者の一人でもあった。

蔡元培記念館内部

1932年、宋慶齢らと共に上海で「中国民権保障同盟」を結成し、晩年は抗日運動と国共合作に尽力した。

1936年、有志が蔡元培の70歳を記念して募金を募り、華山路303、弄16号の住宅を心から敬愛する老教師に捧げた。ここには、1937年10月以来居住したが、間もなく国民党の迫害と日本軍の侵攻を逃れて香港に疎開し、1940年3月、享年72歳で逝去した。教育者として清貧に甘んじた彼は、公衆のため数十年働いた後、何も財産を残さなかった。彼の夫人は病気の薬代を払えず困窮したと言われる。彼の蔵書は寄付したり、日中戦争の中で失われたため、この家が彼が死後残した唯一の財産となった。産となった。

華山路の住宅は、1942年以降、蔡元培の家族が住み、2002年にその一部が記念館として一般開放された。蔡の次女・蔡睟盎と四男の蔡懐新が1937年ここに移って来て以来、今でもこの家の3階と4階に住んでいる。ここは彼らの両親の最後の住居であった。北京大学総長のものとしては、真に慎ましい住宅である。しかし、前の主人の家族が今も住み続ける中国でも数少ない例の一つなのだ。

蔡元培故記念館内部

いまも老婦人・蔡睟盎が住む居間は、彼女の父親の思い出に満ちている。蔡の肖像、彼の様々な版の著作集、靴やステッキ、食器などが部屋に保存されている。

蔡元培は睟盎が13歳の時亡くなったが、彼は息子にも娘にも同じ愛情を示した。彼はこの国で男女平等を推奨した最初の人間の1人だったのだ。記念館には、彼が1900年に提示した5項目の夫婦の選択条件が飾られていた。残念ながら今は見られないが、概要は次のとおりであったと記憶している。

静安寺公園内記念碑

①女子は纏足すべからず。
②女子も識字者となるべし。
③男子は妾を作るべからず。
④夫が死ねば、妻は再婚してよろしい。
⑤夫婦が不一致の場合、離婚してよろしい。

蔡元培の記念碑は、静安公園の奥にひっそりと立っている。南京路から入って100年を経たプラタナスの巨木の並木道を抜け、真っ直ぐに進むと、薄暗い木陰で偉大な教師は今も訪れるものを静かに迎えてくれる。南側を走る延安高速道路の喧騒も、ここには届かない。この林間の記念碑は、訪れる人もなく寂し気に見える。しかし表立った派手なパーフォーマンスを一切好まない教育者、生涯清貧を貫き通した革命家には、ここは相応しいのかもしれない。故郷・紹興には、彼の立派な生家が記念館として残されている。蔡元培の偉大な生涯は、中国人の心に今も深く刻まれているのだ。

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