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ブルックサイド・アパート・枕流公寓と香留沁園邨

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第14回 2008年2月

枕流公寓全景

ある日私は、華山路699号にあるブルックサイド・アパート(枕流公寓)を訪ねた。ここは1930年代、阮玲玉と共に銀幕を飾った「黄金の声」の持ち主、周璇(しゅうせん)の住居だったからだ。

ここは当時最も地価の高い高級住宅地で、多くの文化人が住んでいた。それは近くに上海演劇協会があったからである。周璇は1932年にここに移転してきた。

枕流公寓全景

その建物は、米国の建築家、エリオット・ハザードにより設計されたスパニッシュ・コロニアルのリバイバル様式で、当時珍しい上下2階のデュープレックス方式のアパートであった。そのスペイン風の建物は、螺旋型の円柱の着いた窓、デコラティブなベランダ、スタッコ壁、アーチ型の窓や瓦屋根に特徴があった。第一次世界大戦後、南部カリフォルニアではこうしたスペイン風の建築が流行し、それが上海にももたらされ、流行したのだ。住宅の装飾は簡単だが、最小限の土地をうまく利用するよう上手に設計されている。

どのアパートも、浴室、食堂に、西欧風な厨房設備を備えたキッチンを備えている。寝室は2部屋~4部屋。しかし六階、七階には寝室が5部屋、7部屋の大きな住宅もあり、当時上海では極めてめずらしい建物であった。その部屋はみな広く、天井は3.35mと高い。上質の鋼鉄製の窓枠は室内の保温力を高め、床は白檀の木製である。各部屋のドアは同じで、栗色の木製ドアにスペイン風の飾りが付いている。

枕流公寓プレート

しかし何とも不思議なのは、アパートの名称である。ブルックサイドとは、英語で言う「小川のほとり」だが、近くに水辺を連想させるものは何もない。中文の名称・枕流公寓も「流れを枕にする」とはどういう意味なのか。何となく風流な名前であることだけは分る。そこで更に調べると、“枕流漱石”ということわざが出できた。

その言葉は元来、“漱流枕石-流れで口をそそぎ、石を枕にする(ような放浪の隠遁生活をするの意)”であった。しかし晋の孫楚が間違って“枕流漱石-流れを枕とし石で口を漱ぐ”と言ったので、友人の王済が、「漱流枕石」の間違いだろうと反論した。すると彼は“小川を枕にして耳を洗い、石でうがいをすれば歯が強くなる”と強弁したという。教養の高い孫楚が、初歩的な言い間違いをあえて正当化するため屁理屈をこねたことは、日本でも微笑ましい笑い話として受け取られ、江戸時代の教養人には広く知れ渡っていた“遊び言葉”の故事であった。そこで私は始めて、夏目漱石の雅号がここから出ていることを知ったのだ。友人に聞くと、中国文学を学んだ者には良く知られた話であった。私は上海に来て、初めて文豪・夏目漱石の名前の由来を知ることとなった。だから上海は面白いのだ。しかし何の役にも立たない2千年も前の中国の寓話を、多くの日本の教養人が知っていたとは一体どういうことなのか。教養とは元来そうしたものなのであろうか。

アパートの当初の所有者は李経邁と言い、清朝(1644-1911)の宰相、李鴻章の息子であった。恐らくそのために、このアパートには “枕流”という風流な名前が付けられたに違いない。

周璇(しゅうせん)

周璇のレコード「四季の歌」

ここの住んだ周璇は、1918年江蘇省常州で生まれたが、貧しさのために周一家に里子に出された。8歳の時阿片中毒の養父に娼妓に売られるところを助けられ、歌劇団に入団する。13歳で舞台に上がった彼女は、1935年女優としての仕事を始め、2年後ヒット映画、“馬路天使―街角の天使”でスターの座に着いた。それは、日本軍に追われて東北から上海に流れてきた少女・小紅(周璇)とラッパ吹きの少年・少平(趙丹)の物語であった。映画の中で、彼女は自らの人生と重ね併せながら、下積みの少女の望郷の念と抗日の心情を民謡風な調べに載せて切々と唄った。彼女が歌った「四季之歌」と「天涯歌女」は一世を風靡し、可憐な彼女の姿と黄金の歌声は、今も伝説の歌姫として人々の記憶に焼きついている。

彼女は戦争中もずっと歌手・女優の仕事を続け、1949年新中国成立までに200曲以上のレコードを出し、43本の映画に出演した。

しかし彼女の実生活は、歌手・女優としての華やかな経歴とは異なり、暗く哀れなものであった。1950年代、彼女は破滅的な恋愛事件を起こし、無慈悲な男どもにより精神障害に陥った。

最初の夫、音楽家の厳華とはスキャンダルから離婚し、その後、彼女は朱懐徳と言う香港の絹布商と恋愛をした。しかし彼は既に結婚しており、彼女が息子・周民を生むと周を捨てたのだ。

周璇の写真

1951年周はアパートで火をつけた。自分の息子でさえ窓から放り投げようとした。
1957年夏、彼女は虹橋精神病院に収容され、その後緊急治療のため華山医院に送られた。当時上海には冷房機がなかったので、病室には政府から特別に贈られた大きな氷の塊が置かれたと言われている。

その後映画「和平鴿」のポスター画家、唐棣(Tang Di)が周の人生に加わり、彼女は息子・周偉を生んだ。しかし後に唐は、精神病の周を誘惑してレイプした罪で逮捕された。朱と唐は共に数年にわたって周から金塊や現金、そのた金品を搾取したと信じられている。
周は1957年9月22日、失意のうちに39歳で脳炎のため亡くなった。周の二人の息子は、同僚の人気俳優・劉丹の妻・黄宗英に里子として預けられた。

枕流公寓全景

周璇がよく散歩したブルックサイドの裏庭は、今はひっそりと静まり返り、単に石庭と竹、色あせた風見鶏と楕円形の石が残されているだけだ。多くの芸術家が住んだ華やかな枕流公寓では、かって多くの涙や笑い声が聞かれたにちがいない。特に、黄金の声と美貌に恵まれながら、男に恵まれなかったあの<天涯歌女>を歌った周の声は、今もそこに響いているように思われる。

阮玲玉(げんれいぎょく)

周璇と同様の悲劇的な女優がもう1人いた。1910年に上海で生まれた阮玲玉だ。周璇より7歳年上の先輩女優である。

1916年、人夫や臨時工として働いていた父が44歳で病死した。母親は阮玲玉を連れ、張という買弁の邸宅で住み込み女中として働いた。1926年16歳の時に、阮玲玉は張家の息子・張達民と恋に落ちるが、張の両親の反対にあい駆け落ちする。しかし張達民は全く頼りがいのないプレイボーイで、ギャンブルに溺れ彼女に暴力を振るった。

阮玲玉ポートレート

1925年、明星影片のオーデションに合格して、映画「掛名夫妻―義理の夫婦」でデビュー。「野草閉花」では、古い思想を打破して結婚の自由を得ようとする女性を演じて、スターの座を不動のものとした。

私生活では張達民と分かれ、1933年お茶商人・唐季珊と愛人関係を持つたが、彼とも感情的な紛糾が絶えなかった。

1934年、人気女優・艾霞が服毒自殺をする。三文新聞にあることないことを書き連ねられたことに対する抗議の自殺であった。

阮玲玉顔写真

それを基に蔡楚生監督(1935年モスクワ映画祭で名誉賞を受賞したグランプリ監督)が映画「新女性」を企画した。それは封建社会に反抗して生きる新しい女性像を描いた作品で、阮玲玉は自ら名乗り出て出演した。出来あがった作品は、新聞紙上で大きな非難を浴び、阮は集中砲火を浴びた。メデイアはこぞって彼女の私生活を暴き、スキャンダラスに報じた。張達民とは1933年に毎月100元の慰謝料を払うことで協議離婚した筈であったが、張はこれを否定し裁判所に提訴した。裁判所が阮に3月9日に出廷を命じたその前日に、阮は遺書を残して服毒自殺を遂げた。遺書には「人言可畏―人の噂は恐ろしい」と書かれてあった。享年25歳、余りにも早すぎる死だった。

阮玲玉上半身写真

阮玲玉は、中国のグレタガルボと言われ、気品と庶民性を併せ持つ演技派女優であった。16歳のデビュー以来、抜群の演技力は他の追従をゆるさなかった。女工や教員、舞女や作家まで幅広く、崇高な母親役から下賎な妓女まで、深い精神性を以って表現した。女性差別に苦しみつつ職業婦人として生きる新しい女たちを描いた社会派映画に出演したことで、新たに台頭してきた若い知識層の圧倒的な支持を得たのだ。しかし私生活では、二人の男の狭間で悩み続けた。当時の一般的な結婚では、結婚相手は当人の意向とは無関係に親が勝手に決めてしまう。仲人に任せきりういうことすらあった。こうした旧式な結婚観に反旗を翻し、自由恋愛を実践したことが、メデイアの餌食にされたのだ。彼女は自分の不幸な生い立ちから、どうにかして古い社会を脱して新しい世界に生きることを夢見たのだ。その夢が破れたとき、彼女の人生も終わりを告げた。

阮玲玉9号住宅

彼女の住んだアパートは、静安寺に近い新閘路1124、弄1-59号、香留沁園邨(9号)にある。そこは「静安区名人名居文化遊路線」に指定されたところから、2007年5月19日に一日のみ初めて一般公開された。3階建てのごく普通の石庫門住宅で、いま見ると人気女優のアパートとしては極めて質素にみえる。

阮玲玉門柱

1930年代は上海映画の黄金時代であった。その華やかな銀幕を飾った二人の人気女優の悲劇は、中国社会が古い伝統社会から脱して、近代化へ向けて動き出す生みの苦しみを表していたように思われる。彼女らは多くの映画で、封建社会の残酷さとそれと戦うけなげな民衆を演じて観客の感動を誘った。しかし彼女ら自身が、その犠牲者となったのだ。

上海でも教育が普及すると共に、大量の中産階級や学生層が生まれ、新聞・雑誌などのマスメディアが勃興した。タイトで曲線美を強調したモダンな旗袍に身を包んだ新しい女性たちが、堂々と社会に進出する時代になった。魯迅や茅盾など日本帰りの知識人を中心に、新たな文壇も成立した。

阮玲玉門柱

伝統社会の古い道徳と、急激な社会変化による意識革命が深刻な社会的相克を招く一方で、日本軍の侵略により末期的な状況を呈する祖国に対して、強いナショナリズムが沸き起こった。上海映画はこうした社会変化の中に生きる上海市民を積極的に描くことで、歴史に残る黄金時代を迎えたのだ。二人の女優の死は、そうした時代を映した鏡でもあった。

蛇足で加えると、阮玲玉は死後現在の上海駅の西、蘇州河東岸の広東墓地(広肇山荘)に葬られたという。そこは後に再開発され、今は「不夜城広場」となっている。すなわち今、私の会社のビルが建っている正にこの地区だ。すると河阮玲玉は、もしかして我々の働く真下に葬られていたのかもしれない。

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