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王伯群公館(長寧区少年宮)

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第15回 2008年3月

全景

愚園路(1136弄31号)にある長寧区少年宮は、日本占領(1937~45)以後、通称“汪公館(汪公邸)”と呼ばれた。それは1940年、汪精衛がこの3階建ての大邸宅に住んだためだ。1934年竣工のこの邸宅は部屋数32、南向きの正面は英国ビクトリア朝ゴシック様式で、両側と北面は欧州城砦建築様式となっている。主楼部分は中央と東、西の3部分にわかれ、中央部分は円形の張り出しとなり、左右は6角形の半分、3角部分が中央部分から45度の傾斜で張り出す複雑で優美な構成となっている。庭から2階中央へは石の階段がゆっくりと立ち上り、2階のベランダからは、広い芝生の庭と、楠木、ヒマラヤ杉,木蓮の植え込みのある5千平米の庭が見渡せる。屋根には3つの三角屋根を擁し、東西の両サイドの壁面に褐色のレンガを使い、白い窓枠の壁面とシックなコントラストを描き出している。その美しい外観は、遠目にも人を魅了せずにはおかない。暖炉、天井の精巧な木製の装飾、青と白の瓦などすべては、70年以上経った今も、当時の輝きを保っている。

王精衛(本名・王兆名)

汪兆銘写真

汪精衛は、1883年に広東省三水で生まれ、1901年科挙に合格、1904年に国費力学生として来日し、法政大学に学んだ。帰国後孫文の革命運動に参加し、1924年には、国民党中央委員、宣伝部長に選出された。泥沼化する日中戦争の中で、汪兆名は中国の将来は日本との和平工作を進める以外に生きる道がないと考え、抗日戦争を推し進める重慶の蒋介石と袂を分かち、1940年南京に日本の傀儡政権を樹立して日本との協調路線を推進した。これにより戦後、彼は国民的反逆者の筆頭に挙げられることとなった。1944年多発性骨髄腫の治療のため名古屋帝国大学附属病院に入院するが、治療の甲斐なく61歳で死亡。遺体は彼の希望により中国に持ち帰り、南京郊外の梅花山に葬られた。しかし蒋介石の国民党は、汪兆銘を「漢奸」としてその墓を爆破し、長江に遺体を放逐した。未亡人・陳璧君(ペナン生まれのマレーシア華僑)も、獄中で死を遂げたのだ。

表門

汪兆名がこの館に上海の別荘とし、連絡機構をここに置いた時代には、汪兆銘の南京政府と、重慶の蒋介石の国民党、それに共産党と日本が四つ巴の争いをし、4者の地下工作員が血で血を洗う苛烈な死闘を繰り広げていた。
汪公館はその真っ只中にあり、その優美な建物の外観とは異なり、租界警察の手も及ばない、テロの横行する上海でも最も危険な場所の一つであったのだ。

王伯群公館

南面中央部

しかしこの邸宅は、創建時代に、そうした血なまぐさい歴史とは異なる耽美な物語に彩られている。それはこの住居が元来、国民党の交通部長・王伯群の愛の巣、1934年彼が二度目の妻に捧げた贈り物だったからだ。王伯群は、二度目の妻に対する情熱的な愛に駆られ、完ぺきな住宅を作ることで妻に対する真の愛情を示そうとした。ここは正に彼が妻に捧げた愛の邸宅だった。

王伯群は貴州軍閥・劉顕世の甥で、1885年貴州省で生まれた。日本の中央大学で政治経済学を学んだが、1911年孫文の指導する中国革命に参加するため帰国した。彼は1921年、孫文が広州政府を樹立するのに協力した。彼は袁世凱の行う反革命に抵抗し、1913年西蔵路で弟王文華を殺された過去を持つ。王伯群は、その後生まれ故郷の貴州省省長、交通大臣を歴任し、交通大学と大夏大学(East China Normal University、解放後現在の華東師範大学に吸収された)の総長となった。彼は元来、大夏大学の創立者の1人であったからだ。

入口内部

王伯群は極めて内気な男で、妻を早く亡くしてや一人暮らしを続けていた。そこで国民党の将軍と結婚していた彼の姉が、王と保志寧を黙って引き合わせた。保志寧は上海教育局長の姪で、当時大夏大学一の美人と言われていた。政府は王のために、既に南京に2軒もの家を建てていたが、王は保志寧と結婚するため上海にこの住宅を建てることを決意した。しかしこの結婚は、多くの人からスキャンダラスな目で見られた。

保志寧は、王伯群が次の3条件を約束することで、初めて結婚に同意したと噂をされた。①将来の生活保障としてUS10万ドルを外国銀行に預託すること、②巨額の結婚資金を準備すること、③豪華な住宅を建てることの3つである。彼らが1935年にこの館で豪華な結婚式を挙げた時、保志寧は未だ20歳だった。かつて居間には、天使のような大理石像が飾られていた。それは、王が保志寧を溺愛し、天使のように可愛がったため、彼女を喜ばそうと、はるばるヨーロッパから運ばせたものであった。

テラス

しかしこの贅沢な館での彼らの蜜月は、長くは続かなかった。王伯群は2年半後、彼の住宅の建設業者からの収賄の疑いで、閣僚の職を失ったのだ。彼が建築を委託した建築業者は、交通部の事務所ビルの建築も請け負っており、その金の一部で王伯群公館を建設し彼に贈ったというものである。1937年には日中戦争が勃発し、彼は家族と共に重慶に避難した。王伯群は1944年胃病で亡くなり、後には4人の幼い子供たちと妊娠中の保志寧が残された。

内部階段

保志寧は、1985年この家を政府から取り戻した後、1階と2階を英国領事館文化宣伝処の新しい事務所として貸し出した。彼女はその後家族と共にニューヨークへ移住した。 1985年にこの家を訪れた保志寧に会った少年宮の理事によると、彼女は依然として大変美しく、小さい優美な顔立ちをしていた。彼女は蒋介石の妻・宋美麗と同様に美くしかったと言っている。

王の最初の結婚で出来た子供たちは、全員が王と保志寧との再婚に反対した。彼らは父親が早死したのは、すべて保志寧が原因だと考えている。大夏大学のかつての同窓生たちも、あの結婚は偶発事故のようなものだと考え、スキャンダルにまみれた保志寧を大学史の一章に加えることを拒んだ。

保志寧の子供たちは、保がその家を上海政府に寄贈して、小さな美術館を作ることを望んだ。しかし保は、南京の住宅は寄付したが、この家を手放すことには頑として同意せず、2001年に亡くなった。保志寧は彼女の娘に、「この家は自分にとって、最も大事なものだ。何故なら自分はここで結婚し、ここで王と暮らしたのだから」と語った。彼女は結局再婚せず、半世紀以上を寡婦として暮らした。そして王の5人の子供たちを、一人で育てた。この邸宅は保志寧にとって、王との結婚に関して彼女に向けられた酷いゴシップと戦った証であり、噂を撒き散らした全ての人に、自分はあくまで善意を尽くし、王との愛情を貫き通したのだとする証しでもあった。彼女の半生は、一途にそれを証明するための人生だったとも言えるのだ。

北面

現在この家を維持するには巨額の費用が必要なため、メンテナンスが十分できていない。最近は10年毎に小規模の改築をしているそうだが、配水管は錆付き、壁は剥げている。
しかし王伯群が極めて良質の輸入材を利用したことが幸いして、かろうじて当時の華麗な邸宅の模様を伺い知ることができる。

貴州省故居

現在この建物は長寧区少年宮と呼ばれ、多くの子供たちに放課後、中国書道、絵画、音楽、ダンス、その他の技能を学んでいる。また外国人の子供たちにも開放されている。今この優雅な建物を訪れると、この邸宅に住んだ二人の大物政治家と保志寧の人生を思わずにはいられない。共に日本で学んだ二人の政治家は、結局幸せな一生を送らなかったが、後には立派な邸宅だけが残された。特に王白群は、貴陽に残したフランスと中華折衷様式の豪壮な故居と併せて、2棟の優れた建築物を後世に残したことで、その名前を後世に留めるかもしれない。

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