上海市作家協会・プシケーの館上海歴史、発見!

第17回 2008年5月
作家協会とプシケー像

作家協会とプシケー像

巨鹿路675号の庭園付き洋館は、現在上海市作家協会の建物となっている。しかし元来は、当時の石炭王・劉鴻生の弟・劉吉生の住宅であった。彼の住宅は、プシケー(エロスに愛された蝶の羽を持った美少女)の庭園と呼ばれ、上海で最も豪華な邸宅の一つであった。

作家協会正面

作家協会正面

劉吉生、劉鴻生の両者は、共に名門 St. John’s University (聖約翰大学、現華東政法学院)を卒業した企業家であった。劉鴻生は、上海セメント、香港Matchstick Factoryなど多くの大企業を所有していたところから、石炭王、マッチ王などの名前で呼ばれ、20世紀中国の民族工業の発展に重要な役割を果たした。兄の支援もあり、劉吉生も家業の発展に大いに貢献した。彼は海外の企業家と商売をするに当たり、社交上個人の住宅が必要だと考えた。そこで彼は、ハンガリーの建築家ヒューデック(L.E.Hudec)に優雅で上品な個人住宅の設計を依頼したのだ。ヒューデックは、現在の人民公園近くのパークホテル(当時上海一の高さを誇っていた国際飯店)を始め、上海の多くの建築を手がけた。大理石のプシケー像は、ヒューデックから劉吉生の高学歴の妻、陳汀貞(英語名ローズ)への贈り物で、その邸宅の古典的なデザインを象徴するものであった。そのためその邸宅は、“プシケーの館”と呼ばれることとなった。庭に立つと、その住宅はまるで庭の中央にある目を奪うプシケー像を中心に建てられているようにも思われるのだ。

プシケー像正面

プシケー像正面

プシケーは高さ1.5m。両手に鯉を抱いた四人の天使に囲まれていて、その足元には、水を湛えた蝶蝶の形の泉がある。その像は訪れる者に、有名な“美女と野獣”の御伽噺の下敷きとなったギリシャ神話のエロスとプシケーを思い出させる。プシケーは人間の王女で、彼女の際立った美しさはギリシャの愛の女神、アフロディテ(ローマ神話のヴィーナス)の激しい嫉妬を買いった。アフロディテは彼女の息子、愛の神エロス(ローマ神話のキューピット)に命じて彼の矢でプシケーを射って、彼が最も忌まわしい怪獣と恋に落ちるよう仕向けた。しかしエロスはプシケーの類稀な美しさに魅了され、母親の命令に従うことが出来なかった。逆にプシケーを花嫁とし、多くの困難と障害を乗り越えて、終に一緒になった。この物語に惹かれて、今ではこのプシケー像を前に、毎年80組以上の新婚カップルが結婚式を挙げている。

作家協会テラス

作家協会テラス

その邸宅は1930年、イタリア・ルネッサンス建築様式で建てられた。当時事業の最盛期にいた富豪の兄弟は、その邸宅に多大の資金を投入し、多くの輸入資材と装飾品で飾った。ステンドグラス、シャンデリア、その他の輸入家具類の他に、当時珍しかった集中暖房設備も備えられた。敷地面積1700平米の邸宅は、20万銀元で建設された。本館は壁面に蔦をからませ、ローマン様式の優雅な柱が建物を支えていた。最も豪華な装飾は1階部分に見られる。ステンドグラスの窓のあるダイニング・ルーム、クリスタルのシャンデリアが下がるダンスホールや華麗な装飾を施した会議室など、様々な部屋があった。窓枠、バルコニー、階段や所有者のイニシアルを施した手すり飾りなど、細部までが入念に作られた。

作家協会正面西

作家協会正面西

本館西側にはテニスコートがあり、南側に続く芝生には、形の良い噴水があって、優雅なプシケー像はその真ん中に据えられていた。更に南には葡萄棚と藤棚があり、その下には葡萄と藤の彫刻のある大型の花瓶が置かれていた。庭園は大変魅力的で、20世紀ヨーロッパ貴族の邸宅の芸術的なデザインに溢れていた。それには、当時40歳の陳夫人の卓越したセンスが、大いに影響していた。彼女は、夫の急上昇する社会的地位と富に相応しい、壮大で洗練したデザインの住宅を造りたいと願ったのだ。

劉吉生と彼の大家族は、ここに20年間住み続けた。彼の妻・陳定貞は聡明な女性で、湖州市南潯の著名な絹糸商人・陳熙元の娘であった。劉吉生夫妻には子供が10人いたが、そのうち4人は不幸にも若くして病死した。子供たちの寝室は2階の東の外れにあり、天井には三つの円の中に描かれた天使と、美しいバラと葡萄の絵が描かれていた。2階中央には夫婦の応接間があり、前に広いバルコニーが付いていた。息子の劉徳麟は、聖約翰大学附属高等中学を卒業後に米国に留学した。彼は大学卒業後、席家花園の富豪の娘・席与明と米国で結婚し、帰国後は2階西端の寝室で暮した。

作家協会とプシケー像

作家協会とプシケー像

隣には2人の応接間があった。同じ2階には、劉吉生の書斎、秘書の寝室、更に彼の娘・劉蓮華の寝室もあった。
夫婦の主寝室は至る所に薔薇が描かれていて、夢のような世界であった。クリーム色に塗られたクロゼットには無数の薔薇の彫刻が施され、空に舞う天使と小さな薔薇が壁と天井を優雅に飾っていた。ローズ夫人の寝室には何処からとも無く甘い香りが漂い、彫刻の花が今も生きているように思われた。それは多分それらの薔薇が、かつてそこで暮らしたローズと言う名の婦人の愛と夢を深く吸い込んでいるからに違いなかった。

プシケー像側面

プシケー像側面

当時金持ちはみな3,4人の妾を持つことが普通であった社会にあって、劉夫妻は素晴らしい住宅を建てることで、それを中心に実に睦まじい家庭を築いた。彼らは子供達を大変可愛がった。娘達は結婚後も家を離れず3階に住んだので、3階の廊下は遊び回る子供達の姿で一杯になった。孫が生まれると、一人ひとりに乳母を付けて一緒に住んだので、家族は益々大人数となった。家族の躾つけは厳格で、子供達は目上の者の寝室や居間に勝手に入ることはできず、呼ばれた時以外は入室を許されなかった。子供達が庭園で遊ぶには、裏の階段を使わなければならないと、決められていた。

作家協会窓

作家協会窓

劉吉生の娘婿・余田光は、よく庭のテニスコートでプレーを楽しんだ。彼はコロンビア大学留学中からのテニス部員で、帰国後も上海や外国からの友人と庭で度々テニスを楽しんだのだ。劉吉生の長女夫妻と劉徳麟夫妻は、よく友人を招いてダイニング・ルームでパーティを催し、ダンスを楽しんだ。4人の中国人シェフと2人の西洋人シェフがいて、彼らがしばしば行う大事なお客を迎えて晩餐会の準備をした。家には常時40人以上の使用人と、大型の猟犬を含め20匹の犬がいて、犬は夜間の警備に当たった。彼等の外国の友人は、当時この邸宅で結婚式さえ挙げたことがあった。

作家協会西面

作家協会西面

1948年一家が香港へ移住すると、この邸宅は上海市の管理下に置かれ、上海市作家協会の事務所として使われた。邸宅は幸いにもよく管理され、プシケーの像も文革(11966-76)の激動の中を無事に生き抜いて、元の位置に立ち続けている。それは家族が雇っていた庭師のお陰だと言われている。庭師は文革の間不動産管理部に配属され、自ら志願してずっとこの庭で働いていた。彼は誰も邸宅の如何なる物も壊すことを許さず、10年間プシケー像を温室の中の藁の下に隠していたのだ。しかし建物の西側と南側にあった芝生の庭は、新しい建物にとって代わられた。

作家協会入口看板

作家協会入口看板

劉と共に一旦香港へ去った長男はやがて帰国し、上海市産業商業協会の副理事長に選出された。しかし劉自身は、けして戻らなかった。彼らの最も有能な次女・劉蓮芝はその家に一人残り、この邸宅の行く末を見とどけた。彼女は医学教授と結婚し上海で暮らし続けた。1960年彼女が香港に来たとき、両親は共に香港で暮らすよう説得したが、彼女は同意しなかった。彼女の生活は共産社会の下で、富豪のそれから一般庶民の生活にと激変したが、それでも夫と共に上海で暮らすことを望んだのだ。彼女もやはりプシケーの家で育った家庭の信奉者であった。

作家協会玄関

作家協会玄関

かつてこの邸宅で繰り広げられた一家団欒の優雅な生活は、残された建物から僅かにその片鱗を想像することができるに過ぎない。日夜響いていた一家の笑い声や華やかなパーティのざわめきは、もう聞こえてこない。常に夫婦と子供たちが一緒に暮らす幸福な家庭を夢見た陳夫人の望みは、プシケーの館を失うことで損なわれた。しかしエロスとプシケーのように、二人は劉氏が1962年亡くなるまで共に暮らし、ローズも2年後夫の後を追った。そして今彼ら二人は、カナダのモンントリオールで隣なりどうし永遠の眠りに就いている。

上海には、こうしたハイ・ササイアティの優雅な生活が沢山あったのだ。今はただ、人ごみと喧騒の街に残された古い建物から、かつての上海の優美な姿を少しでも思い出したいと願っている。

島根 慶一

島根 慶一

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