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上海歴史探訪「上海に残るユダヤ人の遺産」

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第18回 2008年5月

上海はユダヤ人社会なくては語れない。現在の上海の骨格は、彼らによって造られたと言っても過言ではない。ユダヤ人は、よく知られている和平飯店を作ったサッスーン一族だけではない。多彩なユダヤ人社会が、実に多くの遺産を上海に残している。それらの遺産を検証することは、租界を中心とした上海の発展史を辿ることとに他ならない。

上海に来たユダヤ人は、セファーデイック系ユダヤ人(スペイン、ポルトガル系ユダヤ人の子孫)と、アシュケナージ系ユダヤ人(東ヨーロッパ人を祖先に持つユダヤ人)、それに、西欧ユダヤ人に大別される。

セファーディック系ユダヤ人

セファーデイック系ユダヤ人(Sephardim)という耳慣れない言葉は、彼らが十字軍によるイベリヤ半島のキリスト教化により国を追われたユダヤ人の長い歴史を物語る。(1492年グララダを占領してレコンキスタを果たしたフェルディナンド王とイザベラ女王は、カトリックに改宗を拒んだユダヤ人を追放した。)多くのユダヤ人がオランダへ逃れ、その後オランダを歴史的繁栄に導いたように、彼らの一部がバクダットに逃れ、流れ下ってインド経由で上海に辿り着いたのだ。彼らは上海開港後、最初にやって来た貿易商の一団であった。彼らは綿花とその関連商品を扱い、その後阿片に手を染めた。彼らは商売の対象を、貿易から銀行、運輸、公共事業など社会の幅広い分野にも拡大した。

彼らのうち最も有名なのは、サッスーン(Sassoons), ハードーン (Hardoons)、カドーリ (Kadoories) であった。社会法規を含め、殆どゼロから建設が始まった新しい開放都市上海は、彼らのように祖国を持たず、国の制約を超えてグローバルに活躍する企業家に最大のビジネスチャンスを提供した。この街で始まった阿片、茶、絹の貿易は、19世紀全体を通じ多くの零細な貿易商を富豪の実業家に育て上げた。上海の国際貿易は1930年代までに並外れた発展を示し、上海は世界最大の貿易港となった。

サッスーン一族

上海のユダヤ人の歴史と遺産

David Sassoonは、上海最大の著名人であった。彼は1875年バクダッドの著名なユダヤ人家庭に生まれ、ボンベイ経由で上海にやって来た。彼の設立したDavid Sassoon Companyは間もなく木綿貿易にも参入し、1830年代初期には阿片貿易を開始した。当時英国製の布地と共に中国に持ち込まれるアヘンの5分の1がサッスーンの船舶によるものだった。彼は代わりに中国からお茶、絹、銀を輸出し、まもなくサッスーン家は上海で最大の資産家に成長した。

上海のユダヤ人の歴史と遺産

Sassoon一家は学校建築など多くの社会事業に貢献したが、中でもSir Jacob Sassoonの残したOhel Rachel Synagogueは特筆に価する。1920年に完成した復興ギリシャ風のシナゴグは、妻のRachelに捧げられた。収容人員700名、アジア最大のユダヤ教会であり、セファーデイック系ユダヤ人の宗教活動の中心であった。内装は、上海の最高富豪が集うのに相応しい豪華を極めたものであったと言われている。残念ながら日本軍の上海占領当時、なんと厩舎として使われ荒れ果てた。現在は上海教育委員会の一部として、一般公開されていないのが残念である。

上海のユダヤ人の歴史と遺産

20世紀に入り上海のSassoon 家で最も有名な者は、サッスーン商会会長、Sir David E.D. Sassoonであろう。彼は1930年代を通じ不動産開発業者の筆頭であった。彼の建築したものには、Broadway Mansions(1934年), Embankment House(蘇州河沿いの河浜大厦、1935年)、当時最高の建築:Sassoon House/ Cathay Hotel(1929年竣工、11階建て、現―和平飯店)などがある。

上海のユダヤ人の歴史と遺産

Sir David Sassoon は、上海社会の中でも異色の存在で、パーテイに美食、女性と競馬に旺盛な欲望をみなぎらせた。中でも競馬は Sir Victor の情熱を最も掻き立てたものであった。

Sir Victor は第一次世界大戦に王室航空隊の一員として従軍し、その時の負傷からステッキ2本を頼りの歩行を余儀なくされた。彼は独身を通し、彼は死の直前に看護婦と結婚した。

4代目、Victor Sassoonは、現在のオークラ・ガーデン・ホテル(旧フレンチクラブ)と旧ドッグレース場、蘭心大戯院に隣接する当時の一等地に18階建てのCathay Mansion(現、錦江飯店北楼)を計画、1929年に完成した。

上海のユダヤ人の歴史と遺産

当時これ程の高層建築はなく、地盤の悪い上海で建てられるのかと大いに危惧されたが、彼はこの賭けに勝つと、更にGrosvenor Mansion (1935年、現、錦江飯店貴賓楼)、Grovesnor Garden(1935年、現、錦江飯店錦楠楼)を建設し、アパート経営にも乗り出した。なお後年、貴賓楼には英国サッチャー首相、レーガン米国大統領、キューバのフィデル・カストロ首相、田中・中曽根両首相なども宿泊している。

上海のユダヤ人の歴史と遺産

その他Victor Sassoonの建設したビルには、Cathay Cinema(国泰電影)、Hamilton House(1933年、福州大厦)、Metropole Hotel (外灘工部局前の新城飯店)などがある。

カドゥーリ一族

上海のユダヤ人の歴史と遺産

Kadoorie 一族は上海のユダヤ人社会の一大勢力で、最も有名な者はEly Kadoorie であった。彼は David Sassoon と同様バグダット出身で、ボンベイを経て1880年上海に来た。彼はDavid Sassoon と共に仕事を始め、やがて独立し銀行、不動産業、ゴム製造で財をなした。

上海のユダヤ人の歴史と遺産

彼は1924年、私邸:嘉道理公館(現、静安寺の中国福利会少年宮)を建設した。また育才公学(現、育才中学)、上海第一肺結核病院を建設するなど慈善事業に貢献したことで1926年英国王室よりSir の称号を得る。1930年代は2人の息子;Laurence とHorace Kadoorie が父親の事業を引き継ぎ拡大、Sassoons, Hardoonsと並ぶユダヤ財閥に成長した。

上海のユダヤ人の歴史と遺産

Ely Kadoorie卿の建てた嘉道理公館は、敷地面積1500平米、2階建て、室数20室を擁し、正に宮殿と呼ぶに相応しい。壁、石柱、暖炉、階段、演壇などあらゆる所に白いイタリア製大理石が使われている。内部は独特な配色で、薄緑とクリーム色で統一されている。見るものを圧倒する宴会場は、高さ25m、幅50m、長さ25m、極めて精巧で美しい白天井と巨大な鏡、クリスタルのシャンデリアを備える。1階の部屋は元来ポーカー用に使われたもので、一風変わった天井は、金色の模様入りで曲線を描いている。現在でも上海一の豪華、壮大な建築物と言えるだろう。

Kadoorrie 一族は今も香港で生活し、事業に、慈善活動に貢献していることで知られている。Hon Michael D.Kadoorieは 1941年香港で生まれ、香港大帽山山麓に嘉道理農場を持つ。CLP(China Light & Power)Holdings 会長, CLP Reserch Institute, Taiping Carpets Internatioinal, ペニンシュラ・ホテルを所有するHong Kong Shanghai Hotels の実質的オーナーである。CPL Holdingsは香港の電力の75%を供給。インド、中国、東南アジア、オーストラリアで公益事業を展開し、資産39億米ドルと言われる。

ハドゥーン一族

上海のユダヤ人の歴史と遺産

Ely Kadoorie が世を去った1931年、上海で最も富豪な者はSilas Hardoon で、彼もサッスーン同様バクダッド生まれのやり手のビジネスマンであった。彼は不動産投資で財を成し、共同租界の評議員に選ばれた。彼は欧亜混血の女性、Luo Jialing (羅迦陵)と結婚、中国人と欧亜混血児を里子とした。彼はまた仏教に深い興味を抱いていた。Hardoon 一家の富裕な生活態度は、妻の本名リザに因むAili Garden (愛儷園・哈同花園)に特徴的に見られる。これは1904年から5年間を掛けて建造された壮大な中国の伝統的庭園で、敷地面積13ha.寺院と書院を備えていた。1911年清朝政府が崩壊した後、Hardoon 一族は皇帝の宮廷生活を取り入れ、生活に窮した皇帝の側女を受け入れ、宦官を使用人として雇ったと言われる。哈同花園の敷地は、北はリッツカールトンの前の南京路から、南は延安中路まで、東西は陝西北路~銅仁までに及ぶ広大な土地であった。彼ら夫婦の死後庭園は荒廃に任され、現在は上海展覧中心がその大部分を占めている。

アシュケナージ系ユダヤ人

上海のユダヤ人の歴史と遺産

上海のアシュケナージ系ユダヤ人社会は、主にロシア人と幾らかのリトアニア系ユダヤ人であった。セファーデイック系ユダヤ人と異なり、彼らは傾向として小規模企業を運営し、多くは輸出入業に従事した。彼らはまたプロの職業人を育て、或るものは音楽家となった。上海音楽学院の入り口近くに残るユダヤ音楽クラブ(Jewish Music Club)は、1948年に建てられえた彼らの音楽クラブであった。

セファーデイック系とアシュケナージ系ユダヤ人はお互い極めて異質の存在であった。1941年に於いてさえ、二つのユダヤ人自治組織が別々に活動しており、ヒットラーのヨーロッパを逃れてきた数千人の難民受け入れ事業を除くと、一緒に協力して活動することは極めてまれであった。

ユダヤ人社会

上海のユダヤ人の貢献度合いは大きい。上海の商業、文化活動に対する影響と共に、彼らはメデイアと出版業界に多大の影響を残した。1936年から1946年の間に上海には50誌以上のユダヤ新聞や雑誌があり、イーデッシュ語(ヘブル語とドイツ語の混成語)、ヘブライ語、ポーランド語、中国語、日本語、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語など様々な言語で発刊されていた。

英国生まれの Sir Victor は、上海にいる英国人の多くが抱く反ユダヤ主義思想に激怒していた。ユダヤ人は英国人クラブへの入会を拒否された。その結果ユダヤ人共同体はKadoorie一族も持つ土地に彼ら自身のユダヤ人クラブを作ることとなった。

その後上海に住んでいたユダヤ人の活動の中心は、ユダヤ人クラブとなった。大多数の者はクラブのカードテーブルで時を過ごしたが、他の者はボーリング、ビリヤード、スヌーカー(玉突きの一種)に興じ、クラブの食堂や図書館で時を過ごした。音楽や演劇の公演も行った。

北京西路1693号のクラブ(愛文義路猶太総会、1932~47年、現―中国薬学会上海分会)は、20世紀初めのロオシア革命を逃れてきたロシア系ユダヤ人の活動の中心であった。

上海のユダヤ人の歴史と遺産

ユダヤ人の遺産としては、もう一つ記憶されるべき建物がある。上海ユダヤ病院(Shanghai Jewish Hospital、現―上海医科大学付属耳鼻咽喉科医院)だ。汾陽路にある5階建ての病院は、1942年に建てられ、1952年に売却されるまで、ユダヤ人社会に奉仕した。現在は病院敷地の一番奥の眼科病棟となっている。

ユダヤ難民の流入

1930年代、ナチドイツによる反ユダヤ主義が激化すると、多くのヨーロッパ、ドイツ系ユダヤ人が上海に避難所を求めて来た。多くの国々がユダヤ人の受け入れを拒否したが、中国の領土であって中国ではない上海は、彼らに査証もパスポートも求めなかった。1931年から1941年の間に、2万人のユダヤ人がこの町に避難民として流入した。

1940年、リトアニア領事・杉原千畝が、主にポーランド出身のユダヤ人2139家族、約6千人に、21日間の日本通過ビザを発給したことは、広く知られている。これらユダヤ人は、シベリア鉄道で中国東北部やウラジオストクを経て、日本へ到着した。しかし、許可された日本滞在間内に当初の渡航目的地、カリブ諸島のオランダ領キュラソーへ渡れず、大部分は止む無く上海にやってきた。

同じような話が、中国にもある。1人の勇敢な中国人何風山博士は、1938年から1940年までウイーンの中国領事であったが、数千人のユダヤ人に査証を発行し、ヨーロッパを離れて上海に安全な避難場所を見つけられるように計らった。

1941年日本軍は上海を占領した。中国人に対する残虐行為はあったものの、ユダヤ人に対して西洋人の様な偏見を持たない日本人は、全般的にユダヤ人に迫害を加えることはなかった。1930年代、欧州ではユダヤ人にたいする敵対感情が生まれ、“シオンの長老の議定書”にあるような反ユダヤ主義の宣伝パンフレットが出回ったが、日本人は余り影響を受けなかった。
(注:シオンの議定書:1918年ロシア革命に反対する白系ロシア軍のコサック兵の首領、グレゴリー・ミカイロヴィッチ・セミョーノフが全軍に配布した怪文書。ユダヤ人が世界制覇のための秘密計画を進めている。ロシア革命も彼らの計画の一部だとする反ユダヤ主義の文章。)

日本は1904年~05年のロシア戦争の際、ユダヤ人銀行家に資金援助を仰いだ。そこで、むしろユダヤ人の巨大な財力と力を利用し、満州にユダヤ人を含めた共和国と建設しようとする動きまであった。

しかし1942年同盟国ドイツからナチ・ゲシュタポの日本代表、Josef Meisinger大佐が“Meisinger Plan”なる計画を持ってやってきた。それは崇明島に処刑所(death camps) を作り、上海のユダヤ人に“最終決着”を図ろうとするものであった。

上海のユダヤ人の歴史と遺産

幸いにも日本軍は、これには同意しなかった。しかし1943年、 Death Camps の代わりに虹口の共同租界の一部・提籃橋(日本人居住区の直ぐ東隣)に、国籍の無い“難民のための指定地区”を設定し、そこに多くのユダヤ人を押し込めた。(西は公平路、東は通北路、南は恵民路(旧Baikal Road)、北は周家嘴路(旧Point Road)に囲まれた地域)。“ユダヤ難民隔離区―Getto”の成立である。その時上海にいたユダヤ人は2万5千人。日本軍はこのゲットを約3年間管理したのだ。

ユダヤ人の多くは能力のある専門家で、教師、編集者、レポーター、作家、画家、音楽家、スポーツマンであった。彼らは隔離区域で学校を開設し、劇団を組織し、移動図書館を作り、音楽バンドを編成し、フットボールチームまで作った。時代の困難な状況下で、数十種の新聞雑誌が発行された。粗末なビルの一角で、130人ものプロのオーケストラさえたちどころに編成できたといわれる。

上海のユダヤ人の歴史と遺産

提籃橋の街角には、オーストリアのパン屋があり、ウイーンの人々が強いコーヒーを啜っていた。或る者は、地元のドイツ語の新聞を読んでいた。(ポーランド語、ロシア語、イーデイッシュ語の新聞さえ発行されていた。)コーシャフード(ユダヤ教の食物規定に基づく食物)の肉屋やドイツのデリカテッセンも近くにあり、聖日に使うお祭り用の蝋燭もアブラハム乾物屋で売られていた。

1945年第二次世界大戦が終ると、上海のユダヤ人は大部分上海を去り、イスラエル、米国、その他の国々へ散っていった。 第二次世界大戦以降、ユダヤ人はほとんど上海に残らなかった。

上海のユダヤ人の歴史と遺産

虹口区提籃橋の摩西会堂(Ohel Moishe Synagogue )は、市政府の記念館として公開され、当時の生々しい記憶を今に伝えている。すぐ近くのスラム化した旧ユダヤナ難民収容所も、ユダヤ難民が暮らした3階建てのアパート(舟山路59号)も当時のままのだ。カーター時代の前米国財務長官,M.Blumenthalは、このアパートの2階に10年間も暮らしていた。当時難民の老人、子供で溢れていた霍山公園には、ユダヤ難民記念碑が建っている。舟山路を歩くと、当時の光景が亡霊のように立ちのぼってくる。

上海のユダヤ人の歴史と遺産

いま虹口地区では、ユダヤ資本を入れて町の再開発が始まっている。かつてそこで過ごしたユダヤ人だけでなく、全てのユダヤ人が彼ら民族の虹口での歴史を保存しようしている。 CJSS (Center of Jewish Studies)のパンフレットによれば、いまもロスアンゼルスには、かつて虹口にいたユダヤ人の団体が発行する新聞、Hongkou Chronicle があるという。

中国にとって、エネルギ資源と絡むアラブ諸国との関係から、対イスラエル政策は微妙だ。ユダヤ教は今も、正式な活動を認可されていない。21世紀経済躍進が続く上海で、ユダヤ人は新たにどのような活動をするのであろうか。また新しい歴史が始まろうとしている。

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