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白崇禧邸(仙灸件餐庁・Ambrosia)

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第19回 2008年7月

全景

份陽路は、賑やかな淮海路から南に反れる静かな通りで、上海音楽学院と楽器店が軒を連ね、並木道にプラタナスが青々と茂る。そこには20世紀初頭に建てられた幾つかのフランス・ルネッサンス様式の建物が点在する。上海工芸美術博物館のすぐ近くにある白崇禧邸(份陽路150号)もその一つである。

ガラスの花瓶のような優美な庭園住宅

正面

この3階建ての豪邸は、1920年フランス国籍の銀行家・M. Speelman によって建てられ、1272平方メートルの広い土地を占めている。庭園には背の高い楠木と桧が茂り、静かに湧き出す噴水の水が池に流れ込んでいる。庭から直接階段が白亜の公館の2階の広いテラスに伸びており、そこからは一面の緑豊かな庭園が見渡せる。建物の東側には半円形の“耳房”(母屋の脇に付けられた背の低い建物)があり、フランス製の凹凸のあるガラスで覆われているところから、それはまるで巨大なガラスの花瓶のようだ。白く透き通った白亜の館は、明るい光の中で輝いている。館内の大小の客間は一面に優美な彫刻で飾られ、三階に通じるラセン階段を登ると、宮殿にいるような気分になる。

少女像

元来1階はガレージと従業員の部屋であった。2階には会議室と食堂があり、3階にはメインベッドルームがあった。金の縁取りのある鏡と大理石の柱は元のまま飾られている。
 メインダイニングルームの中央には、壊れた水差しを持った白いスカートの少女の絵が掛かっている。文革の間(1966-76)隠されていて、改築の際偶然に見つかった絵だ。
 少女の肖像画の脇にある飾り棚には、この家で見つかった古美術品が飾ってある。銅製のドアノブ、元来の窓、骨董の時計などである。3階の寝室は幾つかの個室ダイニングに変えられている。

テラス

陽の光がさんさんと差し込む明るいテラスでの食事は、上品は家具と優雅な室内装飾品に囲まれて、えもいわれぬ至福の時を演出する。しかしこの館には知られざる様々なドラマがあったのだ。

最初の所有者 Michel Speelmanは金満家

室内

Michel Speelmanはフランス籍の銀行家で、ヨーロッパユダヤ難民協会の会長でもあった。彼はまた、フランス租界きっての富豪であった。1921年万国貯蓄協会の董事長に就くと、一般市民のギャンブル好きの性格を利用して中国初の富くじ付き貯金を始めた。内外1千万人以上の預金者から集めた資金は、1927年には預金高2.5億元に達した。当時は中国銀行、交通銀行の紙幣発行高が1.3億元に達しない時代である。上海の30以上の銀行の預金総額を合わせても、5千万元程度しかならなかった。以後彼は上海西部の著名な建築やマンション、衡山賓館などを次々に買収して資産を拡大していった。

階段と窓

Speelman は元来、原籍をオランダに持つすかんぴんの文無しだった。帝政ロシア時代にロシア国籍を取得、上海に来て華俄道勝銀行の行員となったが、公金を横領して逃亡した。その後フランス国籍を手に入れ、万国貯蓄協会を創設し、一大富豪に変身したのだ。
  彼は上海で放蕩生活に明け暮れた。娶った歌手も同じくひたすら散財に励み、彼女の革靴だけで2間が一杯になる程だったと言われている。以後彼女とは50万米ドルの手切れ金で離婚した。1941年日本軍が租界に進駐すると、彼はこの館を追われ、集中管理所に収監された。

骨董品収集に精を出す2代目・梁鴻志

螺旋階段

Speelman がこの館を追われると間もなく、買弁の梁鴻志が住人となった。梁鴻志は1937年の8.13事変(第二次上海事変)以後日本軍が租界を除いた上海を占領すると、汪政権のボスにのし上がった。梁鴻志は清朝末の大儒教家、梁章鉅の孫にあたり、幼い時より古書典籍に親しみ、また収集家でもあった。北洋軍閥政府の国家秘書長に就任すると、その地位を利用して古書典籍の収集に励んだ。彼の秘蔵品には宋代の文人、蘇東坡や辛棄疾等の33通の親筆が含まれていたことから、自らの書斎を「三十三宋斉-33の宋の書斎」と呼んだ。彼はしばしばこの家で派手な宴会を開いては、誇らしげに自らの秘蔵品を客に見せたのだ。しかし彼は、これら貴重な秘蔵品がいずれ彼の手から持ち去られることを、予想できなかった。日本の敗戦により日中戦争が終了すると、梁鴻志は投獄された。彼は虎の子の宋の33書簡を差し出し延命を願ったが、結局許されず処刑される運命となった。

白崇禧・白先勇父子が過ごす解放前の最後のひと時

室内

梁鴻志が投獄されると国民党がこの家を接収し、1940年代白崇禧(1893~1966)一家が入居することとなった。白崇禧は江西省桂林の出身の軍人で、北伐戦争時は国民革命軍総司令部副参謀長となり、蒋介石の4.12反革命政変(1927年蒋介石はクーデターにより左翼系労働者を弾圧、翌年南京に国民党政権を樹立した)に加担した。龍華寺近くの上海烈士記念館には、4.12事件に対する血の出るような告発文が掲示されており、彼の名前も写真と共に載っている。白崇禧は上海解放戦争時には上海に来て、国民党政府の国防部長、華中軍政長官などを歴任し、その間この館に住んだ。

室内

彼は共産解放軍が上海に迫ると、1948年の春節、この邸宅を引き払う前の最後の一夜をここで祝い、台湾に移住した。白一家がここに住んだ期間はけして長くはなかったが(1945~1948年)、彼とその息子・白先勇(後年台湾で著名な作家となる。彼の作品には映画「最後の貴族」の原作「謫仙記」などがある。)の名前が有名だったため、ここは「白崇禧邸」と呼ばれている。

仙灸軒餐庁-Ambrosia

庭

解放後は上海人民政府がこの館を接収し、上海画院と越劇院が利用した。上海越劇院が淮海路に移転すると、梅龍酒店と共同でこの館に越友酒家を開店した。1980年代の或る日、上海越劇団は台湾の作家、白先勇を越友酒家の夕食に招待した。この夜初めて、白氏はここが彼自身幼い時を過ごした懐かしい家であると気がついた。
 当初繁盛した越友酒家に客足が遠のくと、敷地内の隣にある越劇練習場(開楽宮舞庁)を台湾の宝莱納(Paulaner)餐飲有限公司に賃貸し、ドイツ式ビアホールが開設されることとなった。ビアホールは大いに当たり、フィリピンバンドの情熱的な演奏と相まって3階建ての建物に毎夜千人近くが押しかけるほど繁盛している。

玄関

そこで白崇禧邸自体も「仙灸軒餐庁-Ambrosia」として、日本式高級鉄板焼きレストランに改変することとなった。現在は、元来の優美な建築と室内装飾を生かして、毎夜内外の多くの美食家を集めている。
 白崇禧は上海解放前、共産党占有地区の経済かく乱を狙って、白崇禧邸でせってと贋金造りに励んだと言われている。おそらくその場所は、現在人々が舌包みを打つ地下の高級焼肉レストラン辺りであったろう。

地下鉄板焼

この家の過去と上海の歴史を振り返りながら、優雅な食事を楽しめば、それは正に上海らしいグルメの味わい方に違いない。

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