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孫科私邸

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第20回 2008年8月

孫科邸玄関道路

国民党創始者、孫文の一人息子・孫科の美しい旧私邸は、上海市長寧区番寓路22号の高い塀の奥にひっそりと囲われている。その3階建てクリーム色の建物は、上海生物化学研究所の草深い奥庭に置かれており、研究所は1950年代からそれを事務所として使用してきたので、残念ながら、今も一般の人が目にすることができない。しかしそれは、現代の目でみても、素晴らしく優雅で、誰もが住みたくなるような素敵な住宅なのだ。

孫科邸外観

その家は著名なハンガリーの建築家ラディスロー・ヒューデイック(Ladislaus Hudec)が、1920年代後半に自分の私邸として建てたもので、当時の入り口は、現在と同様に延安路側にあった。しかし彼はこの家に直ぐには住まず、後年孫科が彼を助けたお礼に、彼に廉価で売り渡したのだった。

Hudecは1893年ハンガリーに生まれ、1914年ブタペストのRoyal Universityを卒業した。1916年彼はハンガリー王立建築協会会員に選ばれた。しかし第一次世界大戦が勃発すると、1916年ロシア軍の捕虜となり、シベリアのハバロスクへ送られた。1918年彼は逃亡に成功し、上海へと辿りついた。上海はこうした稀有の物語に事欠かない。これこそ正に、アジアの国際都市・上海の面白さなのだ。

彼は人民広場に建つPark Hotel (国際飯店―当時上海で最も高いビル)や、Grand Cinema(大光明電影院), Hubertus Court Apartments(達華公寓―現・達華賓館、延安西路・江蘇路)など,多くの個人邸宅やビルを設計した。彼の設計した建物は、いまも上海中に多くを見ることができる。

孫科邸入口

彼の作品は、当時世界の最先端を行く建築に比べても遜色がない。当時上海はModern Architecture Movement(建築近代化運動)の影響下にあり、外灘に並んでいるような新古典主義建築群から、次第にコンクリートなどを利用したモダン建築に移行する途上にあった。当時のアジアの何処にも、これ程モダンで最新流行の建築は他になかったのだ。

孫科邸玄関内部

1051平米の私邸のあらゆる所に、Hudec の革新的な建築技術が生かされている。大多数の窓はゴシック様式で、1階の書斎と2階の廊下ホールには、装飾用の円柱が付けられ、完璧なまでの優雅さを漂わせている。彼が自ら自分の家を設計したことから、建築上の細部の優れた仕様が随所に見られる。それは、英国人が言うチューダベタン(Tudorbethan)様式,即ち偽チューダー朝とエリザベス朝の中間様式の、現存する最良例である。

ゴシック様式の窓は Hudec が好んで使うデザインだった。円柱も彼が家の装飾として使うのを好んだものだ。全体のスペイン風デザインが、他の建築要素と上手に組み合わされている。

孫科邸居間

Hudec の建築は混合折衷様式で、幾つかの円柱は典型的なスペイン様式でラセン形を描き、あるものはギリシャ、イオニア様式、煙突はイスラム様式と言う具合である。

様々な暖炉についても同じことが言える。或るものは特徴あるルネッサンス様式で、或るものは白大理石の簡素なデザイン。一方どこの様式とも言えない花模様を多用したものもある。家の前の噴水にはヴィナスの彫刻が飾られていたが、今は両方とも壊されてしまった。

正面扉

暖炉とその周辺の優れた意匠の素晴らしさ、階段や廊下に見られる品のいい木彫彫刻の数々、寄せ木細工の床などが、優雅さを増し加えている。玄関の正面扉には、鉄製のフレームで花模様を浮き出した、何とも優美な玄関扉が付けられている。

Hudec はこの家を自由で創造的な雰囲気のうちに設計した。 多分この家は元来Hudec が自分のために設計したので、お客の嗜好を考慮する必要がなかったからであろう。彼は自分の考えが次々に浮かんでくるまま、自由に実験してみることができたのだ。

2階の広々とした浴室は美しい円形ドームを頂き、それは巨大な白い貝殻の様に見える。床には三色の色合いの異なる赤の陶器タイルが貼られ、愛らしいモザイク画を描き出している。3階の別の浴室には、今でも古風な銅製の水道コックと浴槽が備わっている。

孫科邸ステンドグラス

また、この私邸には補助階段が付けられており、使用人が食物を入れた食器を主賓室へ運べるように出来ている。

孫科の生涯

孫科は1891年中国広東省で、孫文と最初の妻、廬慕貞との間の長男として生まれた。孫文は廬慕貞と1913年に離婚し、宗家三姉妹の次女・宋慶齢と再婚した。

孫科は、カリフォルニア大とニューヨークのコロンビア大学で学んだ。彼の父は彼に読書に対する永続的な興味を植え付けた。それで孫科は、旧国民党役員の中でも有名な読書家となった。

孫科邸居間

孫科は1929年から番寓路の住宅に住み、後年第二婦人・藍妮(Lan Ni) もここに住まわせた。彼自身は週の多くの日を国民党政府の官職を持つ南京で過ごさねばならなかったが、週末には大概上海のこの家に戻ってきた。

孫科は1935年、44歳の時、友人のパーテイで美しい藍妮と知り合い、見初めた。彼女を秘書として雇った後に、第二婦人として迎い入れた。彼は研究熱心でよく働いたが、多くの人の目にはやはり“プリンス・太子党”と映った。それは彼の父親が中国革命の先駆者・孫文だったからだ。彼は戦時の行政官としては、ひ弱で、お人好しに思われる。日中戦争の最中、国民党と共産党が血で血を洗う闘争を続ける中で、彼の政策は、反蒋介石、反共産党と言いながら一貫性を欠き、その時々の政治に利用される場面が多かった。

孫文親子

丸顔の彼の顔は父親似であり、彼の激しく移り変わる政治的運命や個人生活までも、一面で父親の生涯を映したようなところがあった。

孫文2世は、1921~1926の間広東省広州市の市長を3期務めた。彼は良き公僕であり、教育制度、環境問題、公共安全について改善実績を残した。

1927年、蒋介石が南京政府を設立すると、孫科は交通部長に就任。財務部長には、宋慶齢の弟・宋子文が就任した。

1931年9月18日、満州事変が勃発すると、挙国一致の政府設立が求められた。一旦は行政院委員長・汪兆銘、軍事委員長・蒋介石で始まった挙国一致政権も、蒋介石が強行する反共産党政策が批判を呼び頓挫する。中国共産党との合作を呼びかける汪兆銘は、南京政府と決別し、広州に広東政府を樹立する。

孫科邸応接間

1932年1月10日、南京・広東両派の妥協が成立。穏健派・孫科を行政委員長とする孫科政権が誕生した。しかし同じ1月末に第一次上海事変が発生、日中両軍が上海で市街戦を演じる事態となる。財政は悪化し、穏健派・孫科政権が対応できる状況ではなくなった。こうして孫科政権は1ヶ月を待たずに瓦解し、再度蒋介石政権に変わった。しかし蒋介石・汪兆銘両者の対立は、その後も解消せず、孫科は両者の間でたえず揺れ続けた。

1937年、盧溝橋事件から第二次上海事変、南京事件へと日中戦争が本格化する中で、国民党行政院委員長としての孫科の手腕は、余り評価されることはなかった。国民党の情報を“男装の麗人”・川村芳子へ漏らしたとの噂も、孫の性格の弱さを物語っている。

1948年、日本軍の敗戦により日中戦争が終結した後、初めての中華民国国民大会が開催された。共産党は参加を拒否した。総督には蒋介石が選ばれ、副総督には6名が立候補した。蒋介石は自らが軍出身のため、副総督には文人の孫科を推した。しかし3回の決戦投票の結果は、抗日戦争で業績を上げた李軍人・宋仁が選ばれた。

孫科邸外観

孫科の内妻・藍妮が敵国ドイツから輸入した顔料が政争道具にされ、1948年4月23日の地方紙が藍妮のスキャンダルを報じた。それは、正に副総督の選挙当日であった。孫科はこのスキャンダルのせいで、李宋宗仁に副総督選挙で破れた。更に最愛の藍妮とも別れねばならなくなった。

米国の孫科夫妻

1952年孫科は彼の最初の妻、陳淑英を伴って米国に移住し、2年後にカリフォルニアに移って来た息子・孫治強夫婦と10年以上も同居を続けた。彼は金銭的に清廉な父・孫文に習い、私有資産を多く造らなかったので、海水浴場の掘っ立て小屋のような粗末な家に住み、一家中で家事を分担する生活であった。上海や南京時代とは打って変わって、生活費を子供たちに依存する、その日暮らしであった。しかし米国での彼の生活は極めて牧歌的で、彼は大部分の時間を彼の趣味―読書に当てることができた。図書館へ通い、しばしば閉館まで居残った。彼は数10数年に及ぶ政争の後に、始めて自分の性格に合った、静かな静養の時を得たのだ。

しかし彼の政治生命はそれで終らなかった。1965年、75歳の彼は、当時の国民党総裁蒋介石から台湾への招聘を受け、断りきれずに名誉職・教育庁長官を引き受けた。1973年9月13日、孫は台北で心臓発作のため亡くなった。82歳であった。

孫科邸廊下彫刻

孫科の“美しい蝶蝶” 藍妮は1986年に上海に戻り、1996年85歳で生涯を閉じた。彼女は孫科が二人の幸福な時期に彼女に書き残したノートをいつも保管していた。そこには、“陳氏と藍氏の二人の女性の愛を得て、自分は幸せであった。もう三人目はけして娶らない、”と記されていた。孫科の子供たちは2年に1度はこの家を訪ねてきたと言う。

今はこの建物の過去の栄華を探る者はない。また、過ぎ去った孫科の華やかな時代と悲恋物語に関するスキャンダルを訊ねる者もいない。ただオールド上海にいた、一人の自由気ままな建築学の天才が作り出した庭と建物が、無言で残されているだけだ。

孫科邸外観

私は、たまたま仕事で生物製品研究所訪れて、この邸宅のかつての持ち主が孫科であることを知った。現在ここを事務所として利用している生物製品研究所の誰もが、この家に限りない愛着を持っているのを実感した。建物は見事に改修、保存されているが、一般に公開されないのが、誠に残念である。

Columbia Country Club

孫科の住宅が建つ上海生物化学研究の敷地には、もう一つの記憶すべき施設がある。米国人の為のコロンビア・カントリー・クラブだ。立派な野外の25mプールは、当時の各種のクラブ施設が周囲を囲み、プールを囲んで優雅なクラブ生活が見られたであろう。今でも夏には、プールは利用されている。また、古びてボロボロの建物が研究所の一部として残されている。建築家ハザードと息子が住んだ住宅であった。

コロンビアクラブ・プール

戦争中に進駐した日本軍は、クラブ施設全体を外国人収容所として主に老人や婦女子の収容に使った。ここは上海内外に作られた20箇所の収容所のうちで、最も快適な施設だったに違いない。ハザードは日本軍占領中、別の収容所に移され、そこで亡くなった。

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