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和平飯店とSir Victor Sassoon その2

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第32回 2010年03月

和平飯店を建設したSassoon 家の第4代頭首・Victor Sassoon は、その勇気と実行力において、Sassoon 一家の中でも屈指の人物であり、正に上海租界を代表する人物であった。

彼は1881年12月30日にナポリで生まれた。そこは一族がバクダットを追われインドへ来る途中、彼の両親が暫く滞在していた場所であった。Victor は、英国で育ちそこで教育を受け、骨の髄まで英国人となった。それはSassoon 一族が,既にインドでの成功により英国の支配階級の一員となっていたからだ。Victor は成人すると、直ぐにボンベイと上海に送られ、家族の貿易業務を学んだ。

1914年イギリスが第一次大戦に参戦すると、愛国的な Victor は、王立航空隊に志願した。しかし航空事故で不具者となったことで、残りの人生を2本の銀の頭を付けた杖にすがって歩くこととなった。彼は“びっこのサッスーン”とあだ名されたのだ。

Sir Victor Sassoon

退役後ボンベイに戻ると、駆け出しの貿易商のプリンスは、女性と富と競馬を同じ情熱で追い求めた。その性癖は以後彼の一生涯を通じて、変ることがなかった。或る時Victor は、「この世に偉大なものが二つある。一つはユダヤ人、二つ目はサラブレッドの競走馬だ」と述べた。1924年彼の父が亡くなると、ヴィクターは家族のSir の称号と資産を受け継ぎ、Sir Victor Sassoon (ヴィクター・サッスーン卿)となった。彼は第三世代Jacob Sassoon の甥で、1916年にNew Sassoon Company を引き継いだ。

錦江飯店北楼

しかし1920年代のインドは不安定で、税金がひどく高かった。一方ヴィクターは、上海の社会的、及びビジネス環境が極めて自分にあっていることを知った。労働力は安く、税金は低く、外国人は様々な特権を享受できた。実務派のヴィクター卿は、東南アジア進出を目指して上海に営業拠点移し、物資をそこに集中させた。Victor卿 は驚くほど有能で現実的な人物であった。彼は1923年に上海にやってきて、数年のうちに上海を主に一家の事業を拡大し、一大帝国を築き上げた。彼は30以上の会社を興し、上海の不動産王となった。

Metropole Hotel 都城飯店

ヴィクターは、企業家というより金融専門家として、10年間のうちに上海の様相を一変させた。ヴィクター卿のヴィジョンと資金力で、上海は米国以外で最も高層な建物を幾つも持つことになった。

Grosvenor House

ヴィクターが建設したのは、和平飯店だけではなかった。彼が蘇州河の対岸に建てたEmbankment House(河浜大楼)は、中国沿岸では最大のビルで、間口が400m以上あった。他にもHamilton House (現・福州大楼:一大アパートメント・ホテル)、Cathay Mansions(現・錦江飯店北楼)、Grosvenor House (現・錦江飯店貴賓楼)、更には多くの中国人用住宅、商店、劇場や事務所などを建設した。ヴィクター卿は、1930年代半ばまでに、中国全土とは言わないまでも、上海一の不動産業者となっていた。

ブロードウエー・マンション

1931年日本が満州国を設立すると、翌年上海でも戦闘(第一次上海事変)が勃発した。3ヶ月間、双方は上海市の覇権をかけて戦った。“東洋のパリ”として知られる上海は、両者にとって何としても欲しい金融センターであった。

和平飯店屋上バー

Cathay Hotelは従業員も宿泊客も戦闘状況が傍で見えるほど、戦闘現場に近く位置していた。流れ弾が音を立てて傍をかすめ、外壁は砲弾の破片が降り注ぎ、壁に突き刺さった。ヴィクター卿は落ち着いて言った、“ここは、戦闘に近い絶好の場所で、劇場でいえば一等席の最前列だぞ”。

和平飯店窓枠意匠

ある時、ヴィクター卿は悪い足を引きずってホテルの前に出て、戦闘状況をフィルムに撮影しようとした。突然弾丸が危うく彼の頭を掠め、側の窓に当って弾けた。中国人兵士が彼を日本軍の狙撃兵と勘違いして、彼に向けて発砲したのだ。中国人将軍は、すぐさま助手を派遣し、心からの謝罪と関係者の処分を約束した。日本軍も、“偉大なキャセイ”に対して及ぼした砲弾の破片による損傷に対して、謝罪を申し出た。

福州大楼

上海の支配権を賭けて日中が血みどろの戦いの最中にあっても、上海租界は西欧の商業と外交がそれとは無縁に活動する別天地であった。上海のビジネス・センターである租界では、資産家に生まれたVictor Sassoon が、上海にある巨額の資産に気を使いながらも、東洋における西洋人の利益保護と、ヨーロッパのユダヤ人の救済のため、精力的な活動をしていた。1935年までに、安全な上海租界は再度の不動産ブームに沸いた。サッスーンはその先頭を切って商売を続けた。

1937年7月7日、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まり、中国は以後8年間戦乱に明け暮れることとなった。上海はその戦略的な位置と内包する資産により、再度激烈な戦闘の場となり、ビジネスは頓挫した。

和平飯店1階廊下

1937年8月13日第二次上海事変が起こった。中国軍爆撃機が日本の駆逐艦・出雲を狙って2発の爆弾を投下した。そのうちの一つが、キャセイ・ホテルと南京路を隔てた隣のパレスホテル(現・和平飯店南楼)の屋根に落下し、燃え上がった。第二弾はキャセイ・ホテルの壁をかすめて、群集が集まる街路に落下し炸裂した。キャセイ・ホテルの優美な窓ガラスの多くは砕け散ったが、建物自体に損傷はなかった。しかし屋外の惨状は酷いものであった。何台もの乗用車が焼け、歩道は黒こげの死体で埋め尽くされた。何百もの死体が飛び散り、その多くは手足が千切れ、識別さえ困難であった。人肉の破片はキャセイの5,6階の壁まで飛び散っていたと言われる。

国民党総裁の蒋介石は、彼の精鋭部隊・87、88師団を投入して応戦した。しかし3ヶ月に及ぶ頑強な抵抗の後、中国軍は降伏し、蒋介石は広大な中国奥地へと退却した。

和平飯店レセプション

上海は日本軍に占領され、国際租界だけが、少なくとも暫くは暴力を免れていた。ヴィクター卿は、表面的には冷静で楽観的であったが、実情はかなり心配であった。彼は数百万ポンドを上海に注ぎ込んでおり、万一日本軍に接収されるようなことがあれば、彼の先祖が100年も費やして築き上げた帝国を失うことになるのだ。

和平飯店と Sir Victor Sassoon第3回に続く。

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