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和平飯店とSir Victor Sassoon その3

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第33回 2010年03月

日本軍と戦うサッスーン卿

和平飯店

1937年から本格的に始まった日中戦争の影響で、中国全土は荒廃にまかされた。しかし国際租界は、戦争で荒廃した街の中で、唯一孤立した平和な土地であった。日本軍は租界の不動産と資産の全てを接収することを望んだ。しかし租界を侵略することは、英国と米国とに戦争を挑むことを意味した。日本は未だ公然と英米に勝負を挑む準備が出来ていなかったので、代わりにひそかな運動を通して、租界を牛耳ろうとした。そうした運動は、直ぐにヴィクター・サッスーンという硬い壁に阻まれた。ヴィクターは、自己の利益保護と愛国心から、租界とそこにある自己の資産を日本軍から守るために、最大限の努力を続けた。

上海は今や、あらゆる種類の難民で溢れていた。住宅は緊急課題であった。巨大な不動産資産を有していたサッスーンは、上海の不幸な状況からも更に多くの利益を得た。

やがて上海の日本軍は、ヴィクター卿に一つのような提案した。彼が上海に持つ資産を保全するためには、彼の莫大な資産と日本軍のものを統合して共同管理にしてはどうかと。ヴィクターは、無論拒否した。日本軍が共同管理の対照として望んだのはサッスーンの優良資産・不動産であり、ヴィクター郷が差し出したリストは、余り価値のないどうでも良い不動産にすぎなかった。そこには、日本軍が切望するものは何一つ含まれていなかった。日本軍は激怒した。

危険が迫りくる中で、ヴィクター卿は王立航空隊のネクタイを締め、キャセイ・ハウスの宴会場で英国とアメリカの映画を上映し、毅然と立ち向かった。租界では彼は勤めて平静を保つよう努力した。それは租界の住民のためでもあり、訪ねてくるビジネスマンに対するためでもあった。外面的には常に日本人に丁重な態度を取りながら、机の中にはいつもリボルバーの一丁を忍ばせていた。

和平飯店

戦闘の混乱の中で、租界の治安維持も日ごとに低下していった。暗殺や放火事件が度々発生し、建物は不審火に晒された。日本軍は、ヴィクターを含め租界のビジネスマンに、上海の法律と秩序を回復するための特別な寄金を募った。ヴィクター卿は、それには一切応じなかった。

1938年秋に彼が米国旅行に出かけた際に、ヴィクターはアメリカのジャーナリズムに刺激的な記事を書かせた。彼は恐れず日本軍を非難し、英米仏の経済封鎖が、やがて侵略者を中国から追い払うであろうと暗示した。翌年の渡米の際には、日本人は間もなく彼らを牛耳る狂気の軍隊に謀反を起こすであろうと告げた。彼のこうした言動は中国本土にも跳ね返り、租界以外の全上海を支配していた日本軍将兵を怒らせた。日本のある新聞は、ヴィクターの逮捕を叫んだ。

ヴィクターの遣り方に業を煮やした日本軍は、最後の試みを始めた。キャセイ・ホテルで開かれたパーティの席で、1人の将校がヴィクターに次のように述べた。“ヴィクター卿の帝国は中国経済に依存している。それはいずれ中国の敗戦と共に崩壊するでしょう。どうしますか?”ヴィクター卿は単眼鏡を外し、念入りに磨いてから、再度自分の目に戻して言った、“別に心配していませんヨ”。

和平飯店

彼は自分の資金はどこか他国に避難させたうえで、上海では巨額の当座預金勘定を借り越していたのだ。日本軍将校は“何だと、当座預金の借り越しだと!”。サッスーン卿は答えた、“当然でしょう。盗人がそこらじゅうにいる時に、良識のある者なら誰も、金を身近に置いておくようなバカな真似はしないでしょう。”

日本軍は租界に食い込もうと三年間躍起になったが、その都度ヴィクター卿と彼の事業仲間に阻まれた。日本軍は上海を占領したが、それはリトル東京といわれた虹口地区の南側に限られ、蘇州河を越えた英米租界には、全く手を着けられなかった。

そこで日本軍は新たな作戦に出た。租界を管理している工部局を支配しようとしたのだ。租界は実際上、複数の国籍の14名の理事・評議員により運営されていた。理事会の構成は、常に英米に有利な議案が通るように仕組まれていた。理事は英国人5人、アメリカ人2人、日本人2人、中国人5人である。これらの理事を選ぶ選挙権は、不動産を持つ納税者に限られていた。

日本人は工部局では少数派であった。しかし、もし日本贔屓の中国人理事の数を増やすことが出来れば、日本人は“民主的に”工部局を支配することが出来る。1940年工部局が選挙を迎えたとき、日本軍は、日本の業界に深い関連のある彼らのシンパ5人を候補者に立て、支援することにした。彼らへの投票は、日本軍に好都合な結果をもたらす筈であった。

和平飯店

しかしヴィクター卿は、彼のFar Eastern Development Co. を細分化し、選挙に必要な一票が名目上各社の社長に割り振られるように手配した。欧米系の他社もそれに追従したため、多数の新たな有効投票者が投票人名簿に加わることとなった。その結果は、日本軍が望む理事の追加は失敗に終わった。

次に日本軍は、諸外国の領事を使って租界に圧力をかけることとした。武力で強行した改革案は、「工部局理事は選挙によらず、国の代表として任命される」というものであった。この方法により、英米は少数派となり、日本は終に多数を占めることが出来た。

上海の土地ブームは続いていたが、国際情勢は悪化していた。1933年ヒットラーが政権に就き、ユダヤ人への迫害が本格化すると、数千人のユダヤ人は国外脱出を始めた。多くの国は彼らに門を閉ざした中で、中国でありながら中国の主権の及ばない上海租界は、旅券なしでこられる唯一の土地であった。

Embankment House

ヴィクター・サッスーン卿やHorace Kadoorieなどの富裕なユダヤ人は、ユダヤ難民に最大限の支援をした。ヴィクターは、無料食堂yは学校建設に資金を提供し、Embankment Houseを難民収容所として提供した。彼はまた、ユダヤ難民も子供たちにミルクや医療施設を供給した。

1941年、ヴィクター卿は上海を出るよう勧告された。米国との戦闘が近ずいていた。一旦戦闘が始まれば、日本軍が速やかに租界を占領することは、誰の目にも明らかであった。

1941年12月8日、真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まったとき、ヴィクター卿はボンベイにいた。日本軍は早速キャセイ・ハウスとサッスーンに所属する他の資産を接収し、サッスーンの5,6人の役員を投獄した。日本軍の租界接収とともに、上海の黄金時代は完全に終ったのだ。ヴィクター卿は、本拠である上海から追放されたが、海外にいて彼の資産と関連企業を連合国のために利用しながら、出来る限り上海の事業を続けていた。

戦後のサッスーン卿

第二次世界大戦が終わると、Victor は蒋介石の国民党が崩壊する前に上海における彼の不動産の大半を売り渡し、資金を英国に還元したのち、New Sassoon Companyの本部をバハマ諸島ナッソウ(Nassau)に移した。こうして中国でのサッスーンの事業は、1950年で終了したのだ。サッスーン卿は、バハマ諸島で新たな事業を始めた。そこは共産主義者からも、社会化した英国の過重な税率からも自由であった。彼はナッソーから従来通りの国際的事業を展開し、1961年その地で亡くなった。

いまでも日本は、国際金融の世界で、知識と経験不足を指摘されている。一方ヴィクターは、国際貿易を目指して早くも19世紀インドへ進出したサッスーン一族の中で鍛えられ、国際貿易と国際金融の専門家に成長した。今から60年以上前、戦闘しか知らない当時の日本の軍人が、ヴィクターのような国際的な経済人に全く手も足も出なかったのは、当然といえば当然だったろう。

サッスーン卿は長年に渡り、国際租界を接収しようとする日本軍の意図を妨げてきた。また、約2万人に及ぶユダヤ人を保護し、それにより彼らがホロコーストの恐怖から逃れることができた。この点ヴィクター卿の果たした役割は、極めて大きかった。

しかし一方、独身だったSir Victor Sassoon は、美女を好んだ。それもダンサーや街の女など、多少いかがわしい女達だ。彼女達と彼を取り巻く富裕な外国人を歓待するため、彼のマンションの上階、とんがり屋根の下に Tower Night Club を作った。彼は自分が特別的な独身者だと考え、78歳まで独身を通した。彼は、女はすべて彼の財産目当てに近づいてくるものと考え、どんな女性も信用しなかった。しかし彼は78歳で病魔に倒れると、皮肉にも最後にアメリカ人看護婦と結婚したのだ。その結果彼の莫大な財産は、彼女が相続することとなった。

和平飯店

実は私は、2000年中国人観光客の日本査証解放を真近に控え、上海の旅行会社との提携を目指して、JTB上海事務所の協力で和平飯店11階でパーティを開いた。カーター前大統領がここで宴席を設けたと聴き、同じ所でパーティを開けば、目指す会社のトップは全員参加してくれるに違いないと考えたのだ。上海へ上海赴任前の私は、何とそれ以上にこの部屋の歴史的な意味を知らなかった。パーティを終えてほっとした私は、かつて Victor Sassoon が夜ごとたたずんだ、あのベランダから眼下に広がる外灘の夜景を眺めて、一瞬、カメラを持参しなかったのを残念に思った。後年和平飯店の歴史を知るに及んで、自分の知識の無さをつくづく悔んだ。もう二度とあの部屋で宴会をする機会はないであろう。

新和平飯店

2007年4月以来改築のため閉鎖している和平飯店は、再びどのような姿で現れるのであろうか。

Savoy London や Fairmont San Francisco を手がけたHBA(Hirsch Bedner Association)は、いま担当している和平飯店の改築について、次のように述べている:

和平飯店改装後ロビーイメージ

新和平飯店の客室はスイートを中心に256室、レストラン5軒にバー、ロビーのカフェテリア、寿司バーや喫煙室が設けられる。8階には中華レストランと有名な国際仕様のスイート、8階のダンスホールにはスプリングボードが張られ、更に幾つかの会議室と屋上テラス、屋外水泳プールが設けられる。

また和平飯店の特徴であった九ヶ国様式の客室については、インド、英国、中国、米国の4部屋は従来通りの形式を保ち、フランス、イタリア、スペイン、日本、ドイツの部屋は、従来の雰囲気を残しながら新しい設計となる。

1階フローアでは昔の古典的な十字形のレイアウトが復活し、四方に回転ドアが設置される。天井には八角形のガラスの天蓋と数十年使われてきた石膏板が着けられ、明るい太陽が差し込む。床には装飾のあるモザイク・タイルが使われ、昔の芸術的なタイル模様を思い出させる。

和平飯店改装後客室イメージ

柱や天井は、薄い黄色や青の明るい色彩で統一され、銅製の欄干や手すりは磨かれて昔の光を取り戻す。四方の壁は灰色の木目調の大理石が取り巻き、フランス製の美しい黒大理石の枠取りと、その中に桃の芯をデザイン化したパネルが嵌められる。こうして1930年代の装飾芸術の風格を再現すると共に、現代的な様相を併せ持つ。上海の歴史を担う和平飯店は、昔以上の素晴らしい姿で復活することを夢みている。

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