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ハルピンと東清鉄道100年史①

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第34回 2010年09月

ウラジオストック駅

中国の北端、黒竜江省の省都・ハルピンは、中央大街を中心に1900年代前半に建てられたロシア風の建物が並び、エキゾチックな街として知られる。近年は特に冬の“氷祭り”が人気を博し、零下35度にもなる酷寒の中で幻想的に輝く氷や雪の彫像を見に多くの観光客が訪れる。ではハルピンとは、どのような歴史的背景を持つ町なのか。それを読み解く鍵は、東清鉄道という鉄道にあった。司馬遼太郎の「坂の上の雲」の背景となった日清・日露戦争、更には戦前の満州国とも深く係るこの鉄道の歴史を辿ることは、正に日本の近世史を辿ることと等しい。

東清鉄道は、ロシア帝国が満洲北部に建設した鉄道路線で、満洲里からハルピンを経て綏芬河(すいふんか)へと続く本線と、ハルピンから大連を経て旅順へと続く支線からなっている。それは今も、中国東北部をT字型に縦断する重要な鉄道の幹線である。

東清鉄道路線図

東清鉄道は、南下するロシアの勢力と朝鮮半島を挟んで中国へ触手を伸ばす日本の力がもろにぶつかりあった、二十世紀初頭の歴史的な出来事の舞台であった。その動向がその後の日本と中国の歴史に大きな影響を与えたのだ。

シベリア鉄道

帝国主義時代、鉄道敷設は常に列強の他国侵略の重要な手段であった。鉄道敷設権を得て鉄道を完成させると、その地域の鉱山の開発権を獲得したり、鉄道を守るために軍隊の駐留権を得たりする。鉄道は、その地域の実質的な支配権を握るための最も有効な手段であった。ロシアと日本は中国東北部の支配権を巡って、東清鉄道の所有権を争うこととなった。

シベリア鉄道

1898年イギリスは九龍半島の新界を租借すると広州と結ぶ九広鉄道を敷設した。青島に海軍基地を置いたドイツは、済南に到る山東鉄道(膠済鉄道)を敷設した。インドシナ半島に進出したフランスは、ハノイから雲南に到る中越鉄道を敷設した。日本も日露戦争に備えて神戸から先の山陽本線の建設と、朝鮮の釜山~京城(ソウル)の鉄道建設に全力をあげた。

ハルピン

後年東清鉄道の中心となるハルピン(哈尓浜)は、満州族の言葉で“魚の干し場”を意味した。そこは少数の漁民と手工業者、農民からなる松花江沿いの小さな漁村にしか過ぎなかった。魚を採り、土地を耕してのどかな暮らしを続けていた人々は、後年起こる劇的な変化を夢想だにしなかったろう。

 1896年ロシア地理学会の測量技師・E.E.アニエットは、視察団を率いて松花江沿岸に入り、3年間非合法な地質調査を行なった。

シベリア鉄道ルート

 1898年4月23日、帝政ロシアの中東鉄道局技師・シトルフスキーは、先発隊を率いてハルピン香坊田家醸造所まで辿り着き、銀8000両でその地区を買い取って中東鉄道局の用地とした。

 中東鉄道は、またの名を東省鉄道とも言い、ロシアの中国侵略の最初の手段となった。1895年、日清戦争は中国の惨敗に終った。その結果中国は下関で日本と屈辱的な日清講和条約を結び、遼東半島と台湾の割譲、賠償金・白銀2億両(邦貨約3億1千万円)を支払うこととなった。1896年ニコライ二世の戴冠式に列席した李鴻章は、日本の更なる攻勢を防ぎ失地回復を図るため、ロマノフ外相を通じロシアの支援を要請した。李鴻章は日本から屈辱的な講和条約を強いられたうえに、和平交渉中に右翼に襲われ重傷を負った。そのため彼は日本を憎み、二度と日本の土を踏むまいと誓ったのだ。彼がロシアを頼みとしたのは、無理からぬ事情であったろう。

ウラジオストック駅

 1880年代、ロシアは欧州、中近東、中央アジアへ向かって領土拡張を試みたが、しばしば挫折を余儀なくされた。そこで目標を極東に換え、朝鮮と中国東北・西北部の領有を目指した。極東への領土拡張のための手段として、ロシアはシベリア大鉄道の補修と延長に着手した。シベリア鉄道の改修がバイカル湖畔まで達すると、その先は黒龍江(アムール河)北岸を通り、ハバロフスクからウスリー河東岸を経由してウラジオストックへ至るルートを計画した。即ちアムール線~ウスリー線ルートである。

一方イルクーツクから張家口を経由して北京に到るルートを提案する者もいた。これらにはそれぞれ問題があった。最終的にはロシアの蔵相・ウイッテの主張が採用された。彼によれば、黒龍江北岸を通る原案は、距離が長く工事量が多いため、建設費も莫大となる。

満州里駅

更にウラジオストック港は冬季に凍結する。一方の北京ルートは、帝国主義的な国家干渉や反対を引き起こす可能性があった。そこで彼は、中国東北部を経由してウラジオストックに到るルートを提案した。この案は距離が短いだけでなく、建設費も安く、短期間の工事ですむ。重要なのは、この案によって中国東北部の占領が容易となる点にあった。彼はこの鉄道建設は単に経済的効果に留まらず、政治的軍事的な意義があることを十分に認識していた。こうして彼の案は、ロシア皇帝の承認を得ることとなった。

日本では山口有朋などが、シベリア鉄道の持つ日本・朝鮮への影響につて、警鐘を鳴らした。1891年、まだ皇太子であったニコライ二世がウラジオストックのシベリア鉄道の起工式に出席するついでに、軍艦を連ねて日本各地を訪問した。それを日本への威嚇と敵情スパイと見た大津の警備巡査・津田三蔵は、ニコライ二世に切りつけた。これは“大津事件”として世に知られる。

ハルピン駅

イギリスはシベリア鉄道の建設を更に深刻に捉えていただろう。英国が南アジアに持つほぼ独占的な貿易ルートは、欧州からアジアに通ずる大英帝国の制海権に依存していた。北方陸上ルートのシベリア鉄道が完成すれば、その輸送日数は南の海洋ルートの半分以下ですむ。それは大英帝国の一大貿易網を崩壊させる可能性さえ秘めていたのだ。

李鴻章を通じ日本に対抗するための支援を求められたロシアは、先ずドイツ、フランスと連合して、日本の遼東半島領有権の返還を迫った(三国干渉)。そのうえで、その功績により東北地方の租借を要求した。

大連駅

1896年5月、ニコライ二世の戴冠式に出席するためサンクト・ペテルスブルグに向かう李鴻章を、帝政ロシアの外務大臣アレクセイ・ロドノフと財務大臣セルゲイ・ヴィッテが待ち構えていた。彼らは李鴻章を元首並みの待遇で迎える一方で、式典期間中彼を脅迫し、恫喝的な手段と50万ルーブルの賄賂を贈ることで、“中ソ相互防衛条約”を結ぶことに成功する。これは一見して欺瞞的な条約で、次のような項目を含んでいた。“①ロシアが防衛上の軍隊を派遣する際は、中国政府は速やかに弾薬と食料を供給する。戦時には、清国の港湾は全てロシア海軍に解放し、軍隊と軍事物資の自由輸送を認める。②中国政府は中東鉄道を黒龍江省、吉林省を通過し、ウラジオストックまで延長することを認める。鉄道の建設と経営は、露清銀行(華俄道勝銀行)が行う。③帝政ロシアの役人、警察官の治外法権を認める。④条約の公表は1921年まで行わない”。これは一般に“露清密約(李・ロマノフ密約)”と言われる。

東清鉄道本社復元・大連

“相互防衛協定”とは名目上日本の侵略を意識したもので、その対抗策として中東鉄道を敷設し、露清銀行を通じて“中ソ共同管理する”というのが趣旨であった。しかし実際は共同管理ではなく、ロシア単独の鉄道支配を意味した。形式的には露清銀行が経営する私設会社・「東清鉄道株式会社」(大清東省鉄路)が業務を行うとしたが、実際はロシア政府自体が建設費4億ルーブルを出資し、毎年1950万ルーブルの資金援助を行う帝政ロシアの大蔵大臣直轄事業であった。“共同管理”の名目上、清朝政府も当初500万両の出資を行ったが直ぐに償還し、清朝政府の出資金はなくなった。契約満期は80年とし、その後は鉄道路線とその資産一切を中国政府に返還すと謳った。

新京駅

1898年、ロシアは度重なる実地調査を踏まえたうえで、アムール川沿いのシベリア・ルートに代わり、“露清密約”で可能となった中東鉄道ルートを以下のように決定した。即ち満洲里から中国領に入り、ハイアル、チチハル、ハルピン、牡丹江を経て綏芬河から中国国境を出て、ロシア領ウラジオストックに到るものである。更にロシアは、鉄道建設に必要な機材の輸入を理由に関税率の大幅な引き下げ、鉄道所属地の司法・行政権の確保、鉄道から離れた都市や土地の管理権までも獲得した。一連の経営特権の中には、年間34億元におよぶ木材の伐採権を認可する一項目もあった。一方中国人には鉄道沿線での木材の伐採は一切認められなかった。松花江の航行権も、ロシア帝国が独占することとなった。ロシア帝国は大量の土地を占有しただけでなく、1900年に起こった義和団事件の際には、鉄道沿線に十万以上の軍隊を駐留させたのだ。門前の狼・日本を恐れるあまり、裏門からどう猛な北極熊を招き入れる結果となった。李鴻章にとって、二度目の手痛い失敗だったに違いない。

瀋陽駅

日清戦争終結のための下関条約調印に際し、李鴻章は時の外務大臣・伊藤博文に、“中国領土の分割だけは止めて欲しい。さもなれば日中は二度と和解できなくなる。更に列強は同じ権益を求めて怒涛のごとく中国に進出してくる。アジアは列強に蹂躙される。”と訴えた。残念ながら、彼の訴えは聞き入れられなかった。しかしその後の歴史は、正に彼が訴えた通りになったのだ。少なくとも李鴻章は、中国をめぐるアジアと世界情勢について、二十一ヶ条を強制した日本の政治家より、ずっとよく見えていたと思えるのだ。

旅順旧駅

1898年ロシアは宣教師殺害を口実に膠州湾を占領する。更に1898年「砲艦外交」を仕掛けることで“旅順大連措地条約”を結び、遼東半島を25年間租借することに成功する。こうして旅順の軍港建設は始まり、旅順は太平洋艦隊が駐留する強固な要塞となった。遂にロシアは、念願の不凍港を確保したのだ。

ハルピン

“旅順大連措地条約”が批准されたことで、ハルピン~旅順間に建設される東清鉄道支線は、ロシアの東北地方支配のための不可欠な手段となった。中国東北部を貫通する全長2489キロの東清鉄道網の計画は着々と進められ、ハルピンはT字形の鉄道の交差点に位置する最重要都市となった。ハルピンは、一個の小さな漁村から植民地的色彩を持った近代都市へと急速な発展を遂げていった。

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