ギュツラフとその時代(2)

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第42回 2011年08月

 ギュツラフから始めた物語を、同じ時代に中国と日本、両国の開港に携わった2人の外交官の話に拡大してみよう。開国をめぐって異なる歴史を辿る二つの国の違いが見えてくる。

Sir Harry Smith Parkes(1828~1885)

 ギュツラフは最初の妻と子供をタイで亡くした。そのためマカオで、イギリス人・Mary Wanstallと再婚した。メアリーは学校や盲人の家などを運営する福祉家であった。1841年英国から彼女を頼って13歳の甥がやってきた。彼は鉄鋼商社の創始者の息子であったが、4歳~5歳で両親に死に別れ、孤児として伯父に預けられた。その伯父も亡くなったことではるばる叔母を頼ってマカオにやってきた。かれの名は Harry Smith Parks、後に駐日英国公使を18年も務め、江戸幕府から明治維新後の日本の近代化に極めて大きな貢献をするのだ。

ハリー・パーックス

 彼は1854年、アモイ領事館の中国語通訳として外交官の道を歩み始める。その後福建領事館勤務の際、後に初代日本国総領事領事となるオールコックと運命的な出会いをする。1855年バンコク領事館勤務の際は、欧米初の英泰通商条約を纏めている。

 しかし何といっても彼の名を世に知らしめたのは第二次阿片戦争・アロー号事件であった。1856年10月、清国官憲はイギリス船籍を名のる中国船アロー号を珠江上で臨検し、海賊容疑で清朝船員を逮捕拘束した。広州領事パークスはこのマイナーな事件を捉え、英国旗をひき降ろしたのは英国に対する侮辱だと強引に香港総領事を炊きつけた。両広総督・欽差大臣の葉名琛は、英国国旗は元来船に掲げられていなかったと抗議した。しかし南京条約後も思うように開港が進まないと不満をつのらせていた英国は、更なる権益の拡大を目指して第二次阿片戦争に打って出る。パークスは広州を砲撃し葉名琛を逮捕、更に北上して天津を攻め、北京郊外の通州で停戦協定に入った。しかし交渉を有利に進めようとする清朝は、パークス等を拘束、北京西湖南岸の高廟に幽閉してしまう。彼は危うく命を落とす寸前で解放されるが、他の11名は拷問のうえ殺害された。これに抗議して、英仏露連合軍は北京に攻め込み、円明園を破壊、略奪した。その結果結ばれた北京条約は、天津条約と併せてキリスト教の布教の自由、内地河川への商船の航行、賠償金の支払い、阿片の輸入自由化、九龍半島の割譲など、南京条約を補完、確固たるものとする数々の権益を英国にもたらした。パークスは単に通訳として交渉に当たっただけではない。広州領事として戦いの発端から条約締結まで、戦闘の第一線に立っていたのだ。

パークスの徳川慶喜謁見

 パークスはその後上海領事を勤め、1865年こうした砲艦外交の成果を引っさげて、日本に乗り込んでくる。彼は尊皇攘夷か倒幕かでもめる時代の流れを鋭く読み、薩長を中心とした倒幕派に加担する。2010年人気を博したNHKの放送「龍馬伝」で見られたように、龍馬や岩崎弥太郎が頼みとしたトーマス・ブレーク・グラバーの後ろには、パークスがいたのだ。尊王派に肩入れしたフランスと違い、英国は明治維新以後の日本で圧倒的に有利な地位を築くことになる。

 フランス資本の入った横須賀製鉄所を接収する際、資金に困った伊藤博文と大隈重信はパークスに泣きついた。その結果、1868年英国東洋銀行(Oriental Bank)横浜支店を介して50万ドルの借款融資を得る。そこから明治政府とオリエンタル・バンクの緊密な協力が始まる。

横浜~新橋間列車

 初めて経験する通貨・金融政策については、1869年彼等の助言を頼りに大阪造幣局を設立し、通貨製造を丸ごとオリエンタル・バンクに依存する。1872年横浜~新橋間の鉄道建設でも、100万ポンドの外債発行、エドモンド・モレル技術長を初めとする専門技術者の雇用など、鉄道建設事業をほぼ一括してオリエンタル・バンクに依存した。

 1873年の第2回目の外債240万ポンドの発行から、財政ピンチに陥った三井組(銀行)の救済融資など、オリエンタル・バンクを引き継いだニュー・オリエンタル・バンクが破綻する1892年まで、明治政府への多大な協力が続いた。そこにはすべてパークスの存在があったのだ。こうして彼は、開港期の日本の近代化に無くてはならない存在となった。

旧パークス像、上海バンド

 しかし彼は、常に大英帝国の利益を優先する、優れて抜け目の無い強面の外交官でもあった。癇癪もちで先進国英国をバックに常に高圧的な態度で望むパークスは、けして日本人に好まれなかった。写真に映ったハゲタカのような写真を見ると、彼の性格が分かるような気がする。

 パークスな1883年駐華英国公使として北京に赴任するが、2年後マラリアで亡くなった。

 彼は本国からSirの称号を与えられ、その銅像が上海外灘に建てられた。日中戦争の折、上海に進駐した日本軍が取り壊すまで、その像は現在陳毅(人民解放軍将軍)の像がある場所に立っていたのだ。パークスの像を取り壊した日本軍は、彼のことをどれ程知っていたのだろうか。

Sir Ratherford Alcock

 パークスの前任の駐日総領事・全権大使は、彼がかつてその下で仕えた上司のラザフォード・オールコックだった。初代上海領事・バァルフォアの後を引き継ぎ、上海の憲法とも言われる上海第二次土地章程を起草して上海租界の基礎を築いたあのオールコックだ。

 彼は1846年37歳で上海領事に就任すると、“十里洋場”と言われる租界地区を確定し、租界地内に土地・建物を持つ外国人だけの租界執行機関としての公部局や、万国義勇隊といわれる軍隊・警察を設立した。アメリカとの共同租界や最初の競馬場を作ったのも彼である。

オールコック

 オールコックは1809年ロンドンの医者の息子として生まれ、ロンドンやパリで医学、解剖学、化学、自然史などを学び、1830年王立外科学校から開業医として認定された。彼はイギリス軍の軍医としてスペイン、ポルトガルに赴任した際、リウマチで両手の親指が麻痺して使えなくなったため、医学の道を諦め外交官に転身する。彼はフランス語やイタリア語を学び、彫刻にも手を染めていた。彼はパークスと違い、文化的な教養も十分身につけていたのだ。

 1859年、彼は上海での成果を買われて、江戸にやってくる。前年に締結され、長崎、神奈川、函館の開港を約束した日英修交通称条約の批准書を交換し、その執行を江戸幕府に迫るためだった。彼は高輪の東禅寺にイギリス総領事館を開設した。彼の在任中に起きた二つの事件は、いまだ攘夷思想が根強く支配する開港後の日本に大きな影響を与えた。

薩英戦争

生麦事件

 1862年、オールコックは幕府が派遣する最初の遺欧使節団を送り出すと、自らは遅れて別の船でロンドンに向かった。目的は使節団が万国博覧会に招待されるよう手配することと、幕府の求めに応じて、新たに江戸、大阪、新潟の開港延期を本国と事前交渉するためであった。彼は幕府との交渉に時間を取られ、同じ船では出発できなかった。遣欧使節団の船がシンガポールに寄航した際に音吉が訪ねてきたのは、オールコックが乗船していると思ったからだ。オールコックは5月30日、使節団より1ヶ月遅れてロンドンに到着し、使節団に合流した。オールコックの留守中に、生麦事件が起きた。

 1862年9月、薩摩の島津久光公が江戸から京都へ向かう途中、相州生麦村(現・横浜市鶴見区)で、乗馬で散策中の上海の英国人商人・C.L. リチャードソンの一行4名に遭遇する。リチャードソンは馬を降り脇に寄るよう命じられたが、中国人を鞭で追い払うことに慣れていた彼は、そのまま700名を連ねた島津久光公の行列の中に割り込んだ。その結果一行4名が殺傷される事件となる。幕府は事件を収めるため、賠償金10万ポンドを支払らはねばならなかった。しかしオールコックの不在中、代理を務めるエドワード・ニールは薩摩藩自体の謝罪と事件担当者の処罰、賠償金の追加を要求し、戦艦7隻を薩摩に向けた。

薩英戦争

 1863年8月、1日半の短い戦闘であったが、双方が多大の損害を出した。英国艦1隻は大破、2隻が中破、死傷者63名の被害であった。一方の薩摩藩は死傷者こそ英国軍より少なかったが、物的被害は甚大であった。集成館付近の新設工業地区が被災し、鹿児島の町の約1割が火の海と化した。薩摩藩は追加2万5千ポンド(6万3千両)を支払ったが、双方相打ちのような状況下で、殺傷事件の謝罪や関係者の罰則は求められなかった。

四国艦隊の下関砲撃

下関戦争

 下田、函館、横浜、長崎の開港が決まっても、以前として攘夷思想が蔓延する長州藩は、1863年下関海峡を封鎖し外国船の通行を砲弾で攻撃した。これに対し英仏軍が下関を攻撃、砲台その他を破壊する。しかし長州藩は砲台を修復し、攘夷の方針を変えなかった。下関海峡の封鎖は、横浜と並んで重要な貿易港となる長崎との交易に重大な支障を起こすと考えたオールコックは、1864年フランス、ロシア、アメリカと図り四国連合艦隊を組織し、下関攻撃に乗り出す。イギリス軍艦9隻、フランス3隻、オランダ4隻、アメリカは軍艦に偽装した商船1隻、計17隻5000名の軍隊であった。

 この戦闘で下関の砲台や長州海軍は壊滅的な打撃を被り、幕府は300万ドルの巨額の賠償金を支払う羽目になった。日本は欧米との軍事力の差をまざまざと知らされる結果となったのだ。

下関戦争砲台

 オールコックは事前に英国本国に戦闘許可を申請していたが、当時の通信状況から“不許可”の通知が届くまで長い時間がかかった。そこで戦闘遂行はオールコックの独断専行と判断され、解任されてしまう。

 オールコックは幕府の役人の傲慢な態度や不誠実にしばしば怒りを表しながら、一方で“The Capital of the Tycoon”を書き、親切で勤勉に働く国民、特に骨惜しみなく働く農民に暖かい眼差しを向け、日本人の生活や文化を好意的に本国に紹介した。彼は日本で、上海土地章程のような植民地政策を残す代わりに、自ら日本の美術工芸品を収集し、第二回ロンドン国際博覧会に出品したり、”Art & Industries in Japan“など多くの著作を残した。

 ロンドン万国博(1862年5月~11月)への参加については、オールコックは世界に君臨するイギリスの力と富を日本の為政者に認識させ、締結した条約の重要性を理解させることを目的に幕府を説得し、36名の遣欧使節団を送り出した。しかし同時に、幕府が求めた江戸、大阪、神戸、箱館、新潟の開市延期を、直接に本国・英国と交渉させること。更に彼が発見したヨーロッパのどの国にも劣らない優れた日本の工芸・美術品を世界に紹介することも同時に企画したのだ。こうして日本はオールコックの手配に従い、国際舞台に始めて連れ出された。その結果、日本は始めて外交交渉を経験することとなり、5市の開市は5年間延期が認められた。万国博に展示された日本の工芸品は大好評を博し、以降ジャポニズムの先駆となった。丁髷と羽織袴でロンドンのあらゆる施設を熱心に見て回る視察団の姿に、世界は好奇と暖かい目を向けた。ヨーロッパにとって日本はもはや架空の存在ではなく、世界は極東まで広がったことを、世界に宣言する場となったのだ。

 彼はナイトの称号を受け、オックスフォード大学から名誉博士の称号をあたえられた。1865年~71年まで中国公使を勤め、1897年88歳でロンドンで亡くなった。

 薩英戦争、下関戦争の二つを通じ、薩長は攘夷の愚を思い知らされた。欧米との軍事力、技術力の差は圧倒的で、攘夷など出来る筈がないことを理解したのだ。そこで両藩は開国して海外から技術導入を図り、国全体を一つに纏めて欧米列強と肩を並べることが必要だと判断した。それには幕藩体制を打ち破る倒幕が必要だった。

 英国も両事件を通じて、文化的な背景の異なる日本との交渉には、武力だけではなく、中国とは異なる対応が必要だと理解した。こうして倒幕、開国に向けて走り始めた薩摩、長州を支援し、日本の近代化に協力することが結果的に貿易拡大を求める英国の利益にもなると考えたのだ。オールコックを引き継いだパークスの対日政策も、この方針に立って進められた。

ギュツラフ気象塔

ギュツラフ気象塔

 1884年イエズス会は、当時洋経濱が黄浦江に流入する仏租界の河口Gutzlaff Plazaに徐家匯天文台の信号塔を建て、信号旗を掲げて帆船や汽船に気象情報を伝えた。現存する気象塔は、こうしてギュツラッフ気象塔といわれる。香港島には“Gutzlaff Street 吉士笠街”がいまも存在するのだ。

 これらは恐らく、彼のキリスト教の普及活動が評価されたからではなく、阿片戦争から中国開港時にかけて、彼が示したやり手の通訳・外交官としての実績が評価されたのであろう。彼は1843年香港総督の中文秘書となり、1851年香港で亡くなった。彼は香港Happy Valley の外国人墓地に葬られている。

1930年代の上海バンド

 産業革命以後、工業製品の新たな市場を求めて、欧米の列強はインド・中国から日本へとやってきた。連続して起こった中国と日本の開国の歴史は、同じ人々によって全く違う結果を生み出した。それは歴史の偶然なのか、対応した日本人の思想や行動の違いによるのか、或いは二つの国の国民性の違いによるのか、私にはよく判らない。しかしそれは、国の枠を超えて起こった一連の連続した出来事だった。そして開港の際のこれらの歴史的な相違が、その後現代まで至る両国の歴史を大きく変える結果となったのだ。

 物資を積んだ列強の船が続々と上海の黄浦江に入ってきた。そのうちで阿片は最も貴重な貿易品であった。恐らくこうした船舶の安全を守ために、ギュツラフ気象塔は建てられた。同じくかつて外灘に立っていたハリー・スミス・パークスの像は、阿片戦争に勝利した彼の功績を思い出させた。それらは創成期の上海租界と日本の両方を結んで、各々全く異なる歴史を生み出した人々の数奇な物語を伝えていたのだ。

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