鎮江とパール・バック

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第44回 2011年11月

 5年間続いた日経新聞の「奇縁まんだら」が、2011年9月末をもって終りとなった。「奇縁まんだら」は文壇に関する瀬戸内寂聴の連載コラムで、彼女が人生で遭遇した様々な人物との出会いを、毎回鮮やかな筆致で描き出す大変興味深い記事であった。満89歳であれほどの優れた文章を書く寂聴に敬服するばかりだが、終りとなって実に残念であった。

Pearl Buck肖像

 昨年(2010年9月26日)の「奇縁まんだら」に、パール・バックが取り上げられていた。外国人作家が取り上げられるのは珍しい。この記事は、女流文学者会で1962年にパール・バックを招いて話を聞く機会があった際、瀬戸内寂聴が70歳になったバックに会った印象を綴ったものである。パール・バックの足跡が残る鎮江と南京は、上海から鉄道で1時間圏内の近距離にあるところから、今回はパール・バックを取り上げてみたい。

 「奇縁まんだら」によれば、パール・バックは「よく肥っていて、写真よりも円満なやさしい顔つきで、白くなった髪が銀色に光って仏の後背のように見えた。紹介されると、にこやかな柔和なまなざしで、包み込むように、ひとりひとりの顔を正面からさし覗くように見つめた。」とある。瀬戸内寂聴は、「観音さまのように優しい“大地”の作者」と、崇拝を込めて紹介しているのが印象的であった。

 誰かが、中国とアメリカの二つの国を往来していて、どちらに親愛感を抱かれますかと聞くと、「両方とも、私にとっては大切な祖国です。でも生後三ヶ月から育った中国の方が、よりなつかしい気がします。」と答えた。

 瀬戸内寂聴は、「この偉大な人の生きた実像に会えて幸せだとしみじみ感動した。」と述べている。

宿州基督教福音堂記念碑

 パール・バックの本名は Pearl Sydensticker Buck (1892~1973)、中国名を賽珍珠といった。父は Southern Presbyterian Mission から中国へ派遣された宣教師で、母はパールを産むため故郷・ヴァージニア州へ一時帰ったが、生後三ヶ月のパールを連れて直ぐに中国に戻った。パールは1911~14年、ヴァージニア州ランドルフのMacon Women’s Collegeで大学生活を送ったが、病気になった母を助けるため、卒業後仕事を止めて中国に戻った。彼女は大学時代を除くと、1934年までほぼ38年を安徽省宿州(合肥近くの田舎)や江蘇省鎮江・南京で過ごしたのだ。彼女が幼年時代・青年時代を過ごした中国に、より懐かしさを覚えるのは当然であろう。彼女が宿州で見た中国の田舎の惨状は、彼女が1938年米国女性として始めて受賞したノーベル文学賞の小説・大地の背景となっている。

Pearl Buck 記念館

 鎮江には、彼女が長年住んだ家族の住宅が今も記念館となって残されている(鎮江市潤州山路6号)。鎮江駅から徒歩10分ほど、木立に囲まれた緩い坂道を2, 300メートル登ると、黒っぽい煉瓦造り2階建ての住宅に辿りつく。今はガランとして殆ど家具もなく、かつての家族の生活を想像することは難しいが、確かにここでパールの一家は生活をしていたのだ。

 19世紀末~20世紀初頭のインフラのない中国での田舎生活は、さぞかし困難を極めたであろう。父Absalom Sydensticher(中国名・賽兆祥)は、伝道以外のことは眼中になく、母Caroline の苦労は並大抵ではなかった。彼女は7人の子供を育てたが、大人になるまで生きられたのはパールを入れて三人しかいない。彼女は1921年、山ほどの苦労の末に中国で亡くなった。

 パールは1917年、 南京大学に派遣された農業経済学の宣教師John Lossing Buch と結婚し、現・南京大学構内に移住するとともに、彼女自身も英文学と中国史を教えた。

Pearl Buck 記念館内部

 しかし1920年に生まれた娘 Carolは知恵遅れの障碍児で、やむなくニュージャージーの施設に預けざるを得なかった。代わりに Janice(Walsh)を養子にとる。後年パールが半生を児童福祉事業に捧げるのは、施設に預けた Carolのことが原因だったに違いない。

 1927年3月、パールの一家は南京事件に巻き込まれる。これは10年後の1937年に日本軍が起こしたの“南京虐殺”とは別で、蒋介石が率いる国民革命軍と共産軍が南京支配を争うなかで、欧米の植民地支配に反対する兵士が南京城内に住む欧米人を襲撃した事件である。英米日など6ヶ国の船舶が救援に向かうが、40名以上の欧米人が殺され、国民党・共産軍の双方でその責任の所在が議論の的となった。

 パール一家は危うく難を逃れ、雲仙でほぼ1年の避難生活を送ったのち、翌年南京に戻った。その後パールは、1934年米国へ移住するまで南京で過ごしたのだ。

パールバック・ノーベル文学賞受賞

 パールは、1932年「大地―The Good Earth」でピューリッツア賞を受賞し、1938年にノーベル文学賞を受賞した。「大地」は王一家の3代にわたる大河小説で、「大地」、「息子たち」、「分裂せる家」の三部作からなる。私の年代では、青年期に誰もが読むべき必読書であった。

 小作人・王龍は富豪の黄家に仕える女奴隷・阿蘭を嫁にもらう。その時代、地主は小作農をこき使い、妾を何人も持ち、家庭では飯炊き女を奴隷同様に使う。飢饉がくれば貧農は野垂れ死に、生まれた娘は器量がよければ旦那たちの性の慰め者となり、不器量なら飯炊き奴隷となった。実際に飢饉がきて食べ物が一切なくなり、雑草さえ食べ尽くされると、王は故郷をすて南方で車夫となり、妻子は路上で物乞いをした。あるとき暴徒と化した民衆が富豪の邸宅を襲う仲間に加わった王は、その家で大金を拾う。それを元手に、故郷の黄一族の土地を次第に買い集め、資産家への道を登り始める。王龍自身が小作農を雇い、女郎屋に入り浸り、妾を囲う生活が始まるのが、「大地」の概略である。

 「息子たち」では、長男・王大が地主となり、次男・王二は穀物商になる。三男・王三は軍人となり、王虎と呼ばれて地方軍閥に仕えるが、後に独立して自身の軍団を持つようになる。王大、王二は王三に資金援助をし、将来大もの政治家となって影響力を行使してもらうことを期待する。

 「分裂せる家族」は、王虎の長男・王淵を中心に物語は進行する。父の多大な期待を裏切り、軍人になるのを嫌った王淵は士官学校を出奔し、都会に住む王虎の別の妻の下に身を寄せる。その娘で都会的で奔放な愛蘭から、ダンスパーティなど都会生活の様々な娯楽を教えられるが、生真面目な王淵の心は満たされない。いとこの「猛」の勧めで革命運動の手助けしたことで収監されるが、裏金で釈放してもらい、猛の兄で詩人の「生」と共に海外留学に出る。留学先でも、西欧人との感覚的な相違から、尊敬する老教授の娘Mary Wilsonの愛も素直に受け入れられずに帰国する。

 時代は移り、革命を叫ぶ貧農や民衆が立ち上がり、富豪の財産を略奪する時代となった。王虎と言われて恐れられた王三も見る影もなく老いて、彼の資産も略奪の対象となった。母が拾って育てた捨て子の美齢に、自分の飾らないそのままの姿が受け入れられることを知った王淵は、生涯で初めて自ら彼女を求め、共に革命の新都市建設に向かう決心をする。いとこの猛は、その革命が中途半端だとして、民衆のための更なる“真の革命”を求めて旅たつた。以上が三部作のあらましである。

 1935年パールはバックと離婚し、彼女の本の出版元の Richard Dick Walsh と再婚する。

J.F.ケネディとのレセプション

 その後は活発な文筆活動や、東西文化交流に従事すると共に、貧困に喘ぐアジアの子供たちのための孤児院や里親制度の設立に奔走する。特にアメリカ兵がアジアの女性に産ませたまま放置した孤児の問題や、女性に対する社会的差別について、米国社会に対し鋭い警告を発した。中国の貧しい農村や小作農に対し深い愛情を示し、こうした方面で米国社会の目を開くことに大きく貢献したのだ。

 1942年設立の East & West Centerは、東西文化交流のためであり、1949年に設立したWelcome Houseは、他民族間の最初の国際的養子縁組機構である。その他 Pearl S. Buck FoundationやOperation Center & Orphanageは、韓国、タイ、ヴェトナム、フィリピンの貧困と差別に苦しむ子供たちのための資金援助や孤児院の経営を目的としていた。

南京大学北大楼

 彼女が夫バックと共に奉職した現・南京大学は、元来米国長老派教会(Presbyterian Mission)が設立した金稜大学と金稜女子学院(現・南京師範大学、南京市寧海路122号)が合併したもので、1941年汪兆銘が日本軍部に協力して南京に国民党政府を設立すると、南京中央大学と改名され、国民党政権下の最高学府となった。

 1943年、江沢民は揚子江を越えた鎮江対岸の名門揚州中学をトップクラスで卒業すると、南京中央大学の機械電気工学科に入学した。1945年10月、共産中国が成立すると、上海及び重慶の交通大学と南京中央大学は合併し、本校を上海に移して現在の上海交通大学となった。これにより江沢民も上海に移り、上海交通大学の卒業生となっている。しかし歴史的にみれば、彼は国民党傘下の南京中央大学の卒業生だとも言えるのだ。共産党政権下で、国民党傘下の学生は厳しく思想審査された。その後の彼の日本に対する厳しい政策方針は、もしかすると彼の入学した南京中央大学と関係があったかもしれない。

Pearl Buck 記念館

 1972年ニクソン訪中が決定すると、米国政府は彼女にジャーナリストの一員として同行を求めた。しかし彼女は、長年の中国との関わりから個人での査証申請を希望した。驚いたことに、彼女の申請は却下されたのだ。未だ文革継続中の江青は、パールを“米国の文化的帝国主義の擁護者”と断定し、“新中国とその指導者に対する中傷、名誉毀損、悪意に満ちた宣伝”をしたとして、彼女の入国を認めなかった。彼女の文革に対する批判は、彼女の自身の“中国人”としての意識から出た遠慮のない発言だったろう。しかし中国政府からの批判・回答は、彼女にとって正に驚きで、彼女は深く傷ついたに違いない。その影響か、現在でも中国人でパール・バックを知る人は殆どいないのだ。

 1992年、江蘇省政府はパール一が1892年~1920年まで住んだ鎮江の家を改築、一般公開をすると共に、2002年江蘇省の文化遺産に指定した。鎮江ではこの年、パール・バックの生誕110年祭を祝うセミナーが行われ、彼女の育てた養子の息子・娘を交えて全世界から125名が参加した。彼女の記念切手も発行された。鎮江市の公園は“珍珠広場”と改名された。いま初めて、パール・バックは中国国民からその貢献を認められたのだ。しかし彼女はそれを知る由もなく、20年も前に亡くなっていた。

パールバックの墓

 ニクソン訪中から約1年後の1973年3月、パール・バックは肺癌で死去、享年79歳であった。遺体はペンシルベニア州PerkasieのGreen Hill Farmに葬られ、墓石には彼女の意向で中国名Sai ZhenZhu(賽珍珠)と彫られた。

 鎮江は高速鉄道ができたことで、上海から日帰りのできる近郊となった。鎮江に行かれる際は、是非彼女の記念館を訪れることをお薦めしたい。鎮江には、パールが大学卒業後に鎮江で教えた学校:崇美女学校(現・鎮江第二中学)や潤州中学も、更にはパールの両親の墓さえも現存するのだ。

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