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東洋のハーバード・聖約翰大学(St. John’s University)

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第45回 2012年01月

旧大学門

 皆さんは華東政法大学(旧・聖約翰大学)をご存知だろうか。上海で大学といえば、復旦、同済、交通、それに東華大と華東師範大などが挙げられるだろう。しかし東華政法大学を挙げる人は少ない。その理由は、この大学が中山公園の裏側・蘇州河沿いの辺鄙な土地にあることと、政法大学(旧・学院)という政治・法律の単科大学であることに起因すると思われる。私も6年間の上海生活で、二度しか訪れたことがない。

 私がここを訪れた理由は、華東政法大学の前身・旧聖約翰大学が、宋家の三姉妹:靄齢、慶齢、美齢の兄弟・宋子文が出た学校だからだ。彼は卒業後、国費留学生としてハーバード大・コロンビア大を経て経済学でPhd. を取得。帰国後は国民党政府財政部長、中央銀行総裁、広東省政府主席などを歴任したぴか一の国際派経済学者だった。彼の外にも、CITICの創始者・栄毅仁、香港最大の映画会社・Golden Harvest 社の創設者・鄒文懐、作家・言語学者の林語堂など、実業界、外交、医学、科学、金融、教育界とキラ星のごとく優れた人材を輩出している。一体これはどういう学校なのか?そこで是非調べてみなければと思ったのだ。

Schereschewsky Hall

 聖約翰大学は、米国聖公会(American Anglican Church)が1879年に建てたSt. John’s College (後にUniversity) である。初代学長は、リトアニア出身のBishop・Samuel Isaac Joseph Schereschewsky。場所は現在の万航渡路1575号で、39名の学生を前に中国語で授業が始まった。生徒の大部分は信者の家庭の出身で、宿舎に生活し、教科書や文房具、衣食住まですべて教会から無償提供された。

 二代目学長・Yung King Yenは病気で早めに帰国したシェルシェウスキーを助けて、8年間学長を務めた。三代目の学長・Francis Lister Hawks Pott は1886年に就任、その後52年間奉職して大学の発展に尽力することとなる。

 ホークス・ポットはコロンビア大学神学部を卒業した牧師で、彼の功績は主に以下のように言われている。1)米国を中心に資産家、社会的指導者、大学校友会などを通じ、多額の寄付援助を集めることで、学校経営の財政的基盤を築いた。2)1881年に始まった英語を主体とした授業を最高度まで高めることで、卒業生が優れた英語力を生かして社会で優位な活動をするのを助けた。3)米国式の自由な雰囲気の中で、清潔で行き届いた教育環境を作り、学業の他にスポーツにも力を入れた優れた大学運営を行なったことである。実際校内には、中国の大学として始めての室内体育館やバスケット場、テニスコートを備え、中庭ではインター・カレッジ陸上競技大会がしばしば行われたのだ。

St. John’s Univ.

 ポットは、彼の教会で最初に聖職に就いた中国人牧師の娘・黄素娥と結婚した。中国文化を愛し、倹約・節約の模範的な人生を歩むことで、大学は大いに発展した。

 当初中等・高等学校で始まった学校は、1892年から3年の大学コースを新設し、英語の授業に切り替える。1896年には医学部と神学部を併設。1905年にはワシントンDCで大学を登記。就業年限を4年に延長し、Universityとして中国で始めて卒業生に Bachelorの学士号を授与した。1913年に大学院を併設。こうして文学、理学、工学、医学、神学の各部を擁し、高等学校から大学院までの一貫教育を行う中国一の大学に成長したのだ。

Social Hall内部

 その間1851年に創設された同じく聖公会系の文紀女校を大学構内に移設し、聖瑪利亜女校として彼の妻が校長を務めた。当時聖マリア女学校は、上海一のお嬢さん学校として名を馳せた。映画“ラスト、コーション”で有名になった“色、戒”の原作者・張愛玲も、ここの卒業生だった。彼女は学生時代から、ハイティーンらしからぬ文才を示したという。彼女は英文で教育を受けたのだ。

 St. John’s U. は1920年~40年代にかけ、中国で最も影響力のある権威ある大学に成長し、“東洋のハーバード大学”、“外交官の揺籃地”と呼ばれたのだ。卒業生は米国の大学生と同じ学位をもち、卒業後は米国の大学院に留学することができた。国内では多くの者が租界の行政機関に就職し、医学部の卒業生は工部局の病院に採用された。

 聖マリア女学校はその後手狭になったことで、1923年に独立校舎を建てて長寧路1187号に移転した。共産中国成立後の1952年には、宋家の三姉妹が卒業した中西女塾と合併し上海市第三女子中学となったことで、聖瑪利亜女校の名前は消え去った。一方聖マリア女学校の後舎は上海紡織工業学校に引き継がれ、現在の東華大学となっている。

格致楼

 1936年~7年、School of Arts & Science の教授54名のうちPhd 所有者は10名、Master Degree 所有者が16名もいた。ポットは教育水準の維持向上に努力し、教授には最低3年間の実務経験と修士資格を求めた。

 1926年~36年の教授と学生の割合は、1926年~36年の10年間に1:7.6から1:13.3に上がった。しかし現在の水準から考えると、夢のような状況ではないか。

 しかしまたSt. John’s U. は、キリスト教の学校としての世界共通の問題に遭遇していた。社会が高度の専門家を必要とし、それに応えて大学の教育レベルを引き上げるのにつれて、キリスト教精神の布教と両立させることが益々困難となってきたのだ。中国人教師の数が増えるに従い、クリスチャン教授の割合が大幅に減少し、大学では礼拝出席も任意となり、益々宗教色を減じて行くことになった。

St. John’s Univ.

 当初は、学生と教授の人間的な接触を重視するキリスト教的な思想から学生数を絞っていたが、大学が大規模となるに従い、Anglican Church Mission の献金では賄いきれなくなる。その結果学生数を増やし授業料を値上げするという、当初の理想とはかけ離れた事態が現出する。特に日中戦争が勃発し、大学が経済的に自立せざるを得ない状況になると、学生数は1937年の568名から1945年には3,554名に急増する。学費は中国一高額となり、正に金持ちの学校となったのだ。

 更に大学は民族主義の台頭と急変する政治状況に無縁ではいられなかった。1925年5月30日、五・三〇事件が発生する。共同租界で抗日活動を行った学生100名が逮捕された。これに抗議して老閘巡捕房(現・南京路第一百貨店新館前)に集まった学生・市民に共同租界警察官が発砲し、13名の死者と多数の負傷者が出た。これに抗議して、上海全市でゼネストが発生、大規模な反植民地・反帝国主義運動に発展した。

St. John’s Univ.

 大学は政教分離の方針から抗日運動への参加を禁止した。そこで9月7日、これに反対した教師17名と学生553名が退学。現在の東華大学の場所に光華大学を設立することとなる。東華大学は、歴史的には光華大学を引き継いだ大学である。

 1937年日中戦争が勃発すると、St. John’s U. は戦火を避けるため、他’のキリスト教大学3校(上海大学、蘇州大学、杭州キリスト教大学)と合併し、共同租界内に一時避難する事態となった。

 1947年共産中国が成立すると、St. John’s U. も中国政府の教育機関としての登録を求められた。しかし宗教を否定する共産主義政府の大学として登録することは、キリスト教主義の教育と矛盾すると考えた大学と宣教団は、登録を拒否した。大学は、以後それによる様々な差別と不利益と戦うこととなる。

華東政法大学看板

 1952年、終に大学は終局を迎える。海外の国際機関が運営する教育施設は全て廃止し、国立の教育機関として組み替えられることとなったのだ。St. John’s U. もAmerican Anglican Church から完全に独立せざるを得なくなる。中国政府教育部は直ちにSt. John’s U. の大々的な解体に着手した。ジャーナリズム科は復旦大学へ、建築科は同済大へ、経済学部は上海大の財務・経済学部へ、政治学科は東華大政治法津学科へ、中国語・中国文化科は華東師範大へと移管されたのだ。医学部は上海第二医科大学へ移管され、更に2005年に同済大学へ再度移された。上海の教育機関は、St. John’s U. の解体により教育上の多く恩恵を受けた。しかしSt. John’s University は永遠に地上から姿を消したのだ。今はただ同じ場所に華東政法大学が残るのみとなった。

 ホークス・ポットは、大学解体前1948年に上海で亡くなった。83歳であった。もし彼が生きていたら、どれほど嘆き悲しんだことであろうか。しかしすべてを国有化した中国においては、他のミッション・スクールと同様に、大学の国有化は避けられないことであった。St. John’s U. の知的遺産は、それを引き継いだ上海の多くの大学で芽を吹き、更に発展していったと考えるいべきなのだろう。

St. John’s Univ.

 北京の頤和園近くの広大な敷地に有数の施設を構えていた米国メソジスト系の燕京大学も、1952年の国立大学化政策により校舎や知的遺産の大部分を北京大学に委譲せざるを得なかった。これにより北京大学は、景山公園東の五四大街・北大紅楼(現・北京新文化運動記念館)から現在の地に移転することができたのだ。

 現在1900年に始まった校友会 (St. John’s U. Alumni Association) は、中国ばかりか香港、台湾、シンガポールと、各地でかっての母校の復活を願って活動している。1961年に台湾・新埔に設立されたXinpu Institute of Technology は2005年遂にSt. John’s & St. Mary’s Institute and Technology から名前を変え、St. John’s University の名称を復活させた。1997年にはカナダ・バンクーバーのUniversity of British Colombiaに、St. John’s Collegeを設立している。いまなおSt. John’s の卒業生(Johanneans と呼ばれる)は、St. John’s U. の教育理念 “Light & Truth” (学んでも考えなければ意味がない。考えても学ばなければむしろ危険だとする論語の言葉)を旗印しに、母校の復興を目指して世界各界で活躍している。

St. John’s Univ. Enbrem

 インターネットでこの校友会のホ-ムページにアクセスすると、かつての校歌がいまも高々と鳴り響いてくる。彼らの失われた母校への熱い思いが、切々と伝わってくるではないか。

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