永安百貨店とDaisy Kwok

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第46回 2012年03月

南京路の鳥瞰写真・1930年代の南京路

 地下鉄2号線・人民広場と南京東路駅の間の歩行者天国は、今でも地元の人々と全国から来る観光客で賑わう上海有数の繁華街だ。いま走っている遊戯用電車に代わり、かつてはGarden Bridge から静安寺までを繋ぐ本物の市電が満杯の乗客を乗せてここを通り過ぎていた。1920~30年代には、先施(現・上海時装公司)、永安(現・華聨商厦)、新新(現・第一食品)、大新(現・上海第一百貨)と4軒のデパートが軒を並べ、世界中の最新ファッションを集めて、ロンドン、パリ、ニューヨークと並ぶ世界的なショッピング街を形成していたのだ。

永安百貨店

 中でも一際目立つのは永安デパート(Wing On Department Store)で、建設したのはGeorge Kwok(郭標)だった。1883年彼は現在の広東省中山市で生まれ、16歳のとき兄を頼ってシドニーに渡った。そこで一家はWing On Fruit Storeを設立し、成功してオーストラリアの中国人社会の指導的な人物となる。彼は孫文を支援し多額の資金を贈った。1911年孫文が辛亥革命に成功すると、彼から中国へ戻るよう要請された。それに応えてGeorgeは1917年上海に戻り、翌年永安デパートを設立したのだ。2008年、永安デパートは南京路の中心で華々しく創立90年を祝った。(ちなみに三越日本橋店の創立は1935年である。)

先施公司

 永安デパートは、南京路を隔ててSincere Department(先施)の向いに建っている。“先施”は同じ広東省出身のオーストラリア華僑・Mr. Ma (馬)Ying-piewによって永安より

 1年早く建てられ、永安と激烈な競争をした。南京路にある4軒のデパート:永安、先施、大新、新新は、すべて広東省出身のオーストラリア華僑により建てられ、シドニーのデパートの伝統を中国に持ち込んだ全く新しいビジネス・モデルだった。

 永安デパートを設立する際、郭兄弟は事前調査したうえで南京路の南側を選んだ。彼らは人を雇い、道路の各々の側に一人づつ立たせて通行人の数を数えさせた。人が通る度に豆を一つずつ袋に入れさせたのだ。数日間やってみた結果、南側の豆袋は北側のより遥かに重くなった。こうして永安デパートは南京路の南側に建つことになった。

 英国古典主義様式の6階建て百貨店は、モダンな設備のうえに始めて女性販売員を置き、ホテルやダンスホール、紹興オペラ劇場、茶館、屋上に天韻花園まで併設されていて、爆発的な成功を収めた。

永安百貨店

 1933年、浙江中路を挟んで東隣に22階の塔状の新楼を建て、2箇所の空中渡り廊下で本館と結んだ。新楼は Elliott Hazzardの設計で、事務所とアパートの兼用であった。アパートは上海の最も華やかな繁華街に位置したため、多くの高級官吏とプレイボーイが大挙して入居した。

 永安デパートの土地は、当初上海最大の資産家・Silas Aron Hardoonから賃借した。彼はSassoonと同様にバクダット出身のユダヤ人で、Bubbling Well Road(現・南京西路、展覧中心)に豪勢な屋敷(哈同花園)を構えていた。厳しい料金交渉のうえ、Georgeは永安の土地を5万テール(銀両)で30年間賃借し、契約終了後は建物付きでHardoonに返却する契約を結んだ。しかしHardoonと彼の妻が亡くなると、郭は1946年早速息子のGeorge Hardoonからその土地を買い取ったのだ。

Daisy Kwok・上海のプリンセス

 では、本題の Daisy に話を移そう。永安デパートの建物は、今も当時のまま優美な姿を南京路の繁華街に留めている。しかし残念なことに、毎日何万もの人が通りすぎる中で、永安の創業者の娘が辿った壮絶な激動の一生を知る人は殆ど居ない。

 Daisy(戴西)、本名郭婉インは、永安デパートの創業者・George Kwokの8人兄弟の7番目で、父のお気に入りだった。1908年オーストラリアで生まれたDaisyは、上海で最も人気のある女性だった。それは彼女が美人のうえ上品で、何よりも金持ちだったからだ。

旧郭兄弟私邸

 郭の家は上海長寧区西部、利西路の隠れた一角(利西路24弄5号)にあった。広いオランダ風邸宅で、Daisyはここで10名の家族と召使24人と共に暮らしていた。元来この家は、スイス人の建築家が自宅として建てたもので、外国人社会の詮索好きな目やお喋りを逃れて、中国人の愛人を囲っていた。今は利西路となった昔の Lucerne Roadは、彼が故郷の町の名前を取って名付けられた。

 郭一家の食卓には、いつも上等な陶磁器と銀器に盛られた贅沢な西洋料理や中華料理が並んでいた。家族はオーストラリアから来たため、家では使用人を含めて全員が英語を使った。Daisyの母親は、先施の創立者・Ma(馬)一族の出だった。

郭兄弟家族写真

 1930年代に前庭の芝生で撮った18人の家族の写真がある。主人はコロニアル風の白い背広、若者は灰色スーツに白ズボン、中でもお洒落な一人はスポ-ティな格好で蝶ネクタイ、胸のハンカチが見える。女性はゆったりとした衣裳に長めの靴下、ハイヒールを履いて、格好のいいショートカットの髪をしている。そこには、西洋式の豊かな生活を楽しむ当時の上流階級の姿があった。後に国民党財務長官を務めて宋子文も、しばしばこの家で食事を共にしたのだ。

旧郭一族私邸

 Daisyは、宋家三姉妹の通った名門McTyere Girls’ School(中西女塾、現・上海女子第三中学)を出たあと、燕京大学を卒業した。燕京大は1916年に米国メソジスト派が建てたハーバード大学の姉妹校で、北京海淀区に中国最大のキャンパスを構えていた。しかし1952年国有化政策により解体され、遺産のすべては現在の北京大学に引き継がれたのだ。女性の高等教育が極めて珍しかった時代、Daisy がいかに恵まれた青春時代を送ったかが分かるだろう。

 彼女は多くの歴史ある資産家の子弟から求婚された。最終的に彼女が結婚相手に選んだ のはY.H. Woo(呉毓驤)で、1840年の阿片戦争で名を馳せた林則徐の末裔(母親の祖母が林則徐の娘)だった。Daisyによれば、呉が他の婚約者と違っていたのは、結婚後でさえ一緒にいて一度も“退屈”と感じたことが無かったことだ。

26歳のDaisy

 呉との婚約披露宴は彼女の自宅で行われた。広々とした芝生の上に並んだ100以上のテーブルは、正に壮観だった。上海の作家・陳丹燕は、Daisyの自叙伝の題名を Shanghai Princessとしたが、Daisyは正にその通りだったのだ。人生最上の幸福が全て約束されていると思われた。

 1949年共産中国が成立する前にDaisyはこの家を出て、Woo(呉)との新婚生活を始めていた。弟のジョージ(喬治)を始め、殆どの家族が国外へ去ったが、彼女一人は最後まで上海に留まった。父親は1932年に、母は1947年に亡くなっていた。共産中国成立以降、彼女の人生は激変したのだ。

 夫となったWooは、彼女と同じような家庭環境で育ち、マサチューセッツ工科大学(MIT)を卒業した。彼は当然有産階級特有の優雅な趣味を持ち、スマート服装に身を包み、黒塗りのフォードに乗り、常に上流階級特有の生活を追い求めた。その結果1956年”右派“として譴責され職を追われた。彼はUS$64,000の賠償金を求められ、提籃橋監獄医院で病死する。夫に代わる債務者となったDaisyは、返済金集めに奔走する。郭・呉両家の墓も発かれ、地獄の生活が始まった。

 1963年文革が始まるとDaisyは全財産を没収され、青浦の労働改造所に送られる。55歳であった。麦わらを敷いただけの家鴨小屋に女性8人と共に寝泊りし、鉄鉱精錬や道路工事などの工場労働や養魚場建設に従事する。建築現場では、竹を組んだ細い足場を伝って重いセメントを上まで運び上げた。真冬の凍った野菜の皮むきで彼女の指は変形し、小さな物を掴めなくなった。

 1969年彼女が60歳のとき、定年退職となる代わりに、崇明島の東風農場で再度労働改造を命じられる。こうした労働改造所でいつも命ぜられるのは、便所掃除であった。懲罰と恥辱を加える目的で与えられるもので、単に便器や便所の掃除に留まらず、畑の地面に深い穴を掘り木桶を据える。糞尿で桶が一杯になると彼女は一人で大きな穴から糞尿を汲み上げ、溜池まで運ばねばならない。糞尿桶を川まで運び、洗浄したのち元の穴に戻すのだ。誰の助けも期待できず、冬の寒さと酷暑の中で、衆人の嘲笑と屈辱の言葉を浴びながら、彼女は命ぜられるまま黙々と働いた。

 しかしDaisyは、そうした不幸を嘆く代わりに、“トイレ掃除でも野菜の皮むきでも、自分は誰よりも立派にやろう”と思った。数十年に及ぶ動乱の中で、彼女は持てるものや愛するものの全てを失った。悲しみや失意、深い心の傷を心の底に秘めて、自分が受けた不公平や苦難を人に語ろうとはしなかった。人を恨むことなく、いつまでも他人への配慮を失わなかった。彼女を終生支えたのは、生まれついた強いプライドだったろう。歳と共に顔は微かむくんできても、少女のように清純な精神が生き生きと光を放っていた。“人生の巡りあわせの中で与えられるものは、私は何でも受け入れる”と語るのだ。

56歳のDaisy

 1998年Daisyは路地裏の粗末な共同アパートの一隅で亡くなった。享年89歳。遺体は本人の希望で、上海赤十字医科大に研究用として寄贈された。それまでの25年間、彼女は厳しい逆境の中でも常に平静沈着であった。運命に押しひしがれることなく、堂々と上を向いて歩くプリンセスであり続けた。あれほどの苦難の後でも、彼女の育ちの良さはいつまでも失われなかったのだ。

 Daisyは、上海という町で生涯を通じ、中国の資本主義の誕生から、発展、没落のすべてを経験したのだ。彼女は、日中戦争、国民党との解放戦争、四清運動、文化大革命、修正と開放、中国の国際社会への復帰、これらすべてを経験した。彼女はそれらを、辛抱強く、勇敢で楽天的、愛らしい自立した女性として乗り越えた。あの騒乱の時代にあって、彼女は、自分の人生は困難の連続だったが、実り豊かな人生だったと語っているのだ。

 彼女の友人・Old China Hand PressのJohnstonは、“Frenchtown Shanghai”の中で心をこめて次のように述べている。

旧郭私邸前に立つDaisy

 “我どもは彼女の逝去に際し、勇敢でしかも思いやりのあった彼女を讃えると共に、限りない愛と悲しみを覚える。Daisy, 貴方を失って寂しい。でも貴方は私どもの心の中に、そして我々の本の中にいつまでも生き続けるのだ。”

写真:Shanghai Daily,及び Frenchtown Shanghaiから。

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