里見甫の墓に詣でる(千葉県市川市国府台3丁目)

里見甫の墓に詣でる(千葉県市川市国府台3丁目)

第53回 2019年10月

 2010年上海から帰国して以降、私は郷里・千葉県市川市に住んでいる。市川は、東京都と千葉県の県境・江戸川を挟んで対岸に位置する。市内あちこちには黒松が茂り、閑静な住宅地として知られる。
 どの街の住民も、えてして地元の事はよく知っているとの思いから、町の歴史にはあまり興味を示さない。私も同じで、市川には私の興味の対象はないと考えていた。
 しかし佐野真一氏の「阿片王・里見甫」を読み返すと、里見甫の墓が市川にあると書いてあるではないか。場所は、里見公園近くの総寧寺内という。では何を置いても、彼の墓に行かねばならない。

 里見甫は一般にはあまり知られていないが、戦前上海に住み、満州の関東軍の指示に従い阿片売買に従事していた。日本租界(正しくは共同租界)に設立した「宏済善堂」を通じ、中国国内で阿片の栽培、生産、販売を一手に引き受け、青帮の親玉・杜月笙の三鑫公司と中国での阿片市場を二分していたのだ。
 海南島や満州などで阿片を生産すると共に、関東軍軍用機を使いイラン等から阿片の輸入も行った。一説には、1941年の年間売上は三億元に達したと言われる。彼は収入の四分の一を自社経費とし、四分の一を蒋介石の国民党に上納し、残り半分を関東軍に納めていた。彼が扱う阿片は、関東軍の戦争遂行に必要不可欠な資金源であった。

 私は或る時、かつて里見甫が住んだ公寓・Pearce Apartment(現・塘沽路411号、浦西公寓を訪ねた。1931年建築の鉄筋コンクリート製7階建て高級アパートは、2階を継ぎ足し古びた9階建の建物に変わっていた。彼は只一人ここに住んでいたのだ。億単位を稼いだ阿片王から想像する住宅とは、かなりかけ離れた住居であった。彼は馴染みの女性と毎夜飲み屋に出かける以外は、むしろ極めて質素な生活を送っていた。

 日本の敗戦後、東京(極東)軍事裁判が開かれると、里見甫は民間人で第一号戦犯として訴追、収監された。しかし半年後に出た判決は無罪。理由は、阿片取引は彼が関東軍の指示に従い遂行したもので、個人的な利益を求めなかったこと、及び、英国自体が1911年まで阿片取引に関与していた事実がある等で、里見を有罪にできなかったのであろう。
 1969年彼は日本で69歳の生涯を終えた。彼の死は、戦前の満州、上海での行動と同様に、人に知られることもなく、忘れ去られた。

 私は京成電鉄国府台駅で降り、松戸街道を松戸に向かって車の往来の激しい街道の坂を20分ほど登り、江戸川べりの里見公園を目指した。里見公園は、江戸時代の長編小説・里見八犬伝の舞台と成ったことに由来するが、里見甫とは何ら直接の関係はない。

 公園のすぐ隣に、目指す総寧寺があった。寺の規模はさして大きくなく、どこにでもある普通の寺に見えた。しかし門前の案内板によると、江戸時代、寺は幕府から10万石の寺領を与えられ、里見公園だけでなく、付近一帯の広大な土地を所有していた。だが明治になると、政府の廃仏毀釈政策により寺領の大半は取り上げられた。その跡地に野砲連隊の基地が建設されたのだ。兵舎、練兵場、弾薬庫、射撃場、精神病院などがあった。野砲連隊は、日露戦争から始まり太平洋戦争までの各地の戦線で活躍し、1945年の終戦を迎えた。
 戦後は不要となった軍用地に、千葉商大、和洋女子大、東京医科歯科大教養学部、その他中学、高等学校など多くの教育機関が建てられた。いまは「文教都市・市川」と言うが、戦前は正に「軍都市川」だったのだ。

 総寧寺の門を入ると、正殿の後ろに7,80基の墓が見える。あちこち里見甫の墓を探し回った末、里見公園に接する西南の隅に、隠れるように彼の墓はあった。2平方メートル前後の長方形の墓地で、黒色の墓石の正面に「里見家霊位」と刻まれ、側面には岸信介揮毫と記されていた。
 岸信介は元日本国総理大臣で、現在の首相・安部晋三氏の母方の祖父だ。里見甫の墓を建てた時分、岸は既に総理大臣の職を辞していた。しかし政界では、依然として隠然たる影響力を保持していたであろう。彼ほどの大物政治家が一個人の墓に揮毫するとは、余程の事情があったに違いない。岸信介は戦前満州に3年間駐在し、満州国商務大臣として満州国建設に尽力した。

 岸が記した里見甫の墓碑には、次の様に記されている、「里見甫は上海同文書院を卒業、大陸の企画、経営に参画し、国家の政策を実践、滅私奉公の精神で国家百年の大計に多大の貢献をした。」そこには、阿片売買や阿片に関する一言の記載もなかった。
 里見も岸も共に満州で働いていたのだ。一生を闇の中で活動した一個人と、政界を牛耳った高級官僚の間に、如何なる交流があったのか。

 墓の前で私は茫然と立ち尽くした。私の脳裏には、突然かって見た薄暗い阿片窟の写真が甦った。長い煙管を持って虚ろな表情でベッドに横たわる中毒患者の姿だ。更に上海で何度も訪れた風景:浦西公寓(里見甫のピアス・アパート)、宏済善堂(里見甫の阿片取引会社)、付近の四川北路、首席公館ホテル(旧杜月笙の阿片取引公社・三鑫公司)、杜月笙が仏租界とつるんで部長を務めたマレー警察署、道を挟んで隣の杜月笙親分の経営する中匯銀行などが、次々に思い浮かんだ。
 どのくらいの時間が経ったのか。我に返ると、私は只一人総寧寺の中、里見甫の墓の前に佇んでいた。木梢を渡る微風が微かに枝葉を揺らし、明るい太陽の輝きが背中の向こうを照らしていた。私はほっとして大きな溜息をついた。

 里見甫は東京裁判で、一言も弁解しなかったという。自らの犯行を一切隠すことなく、洗いざらい述べた。彼の墓標の傍に、辞世の句が刻まれていた、「風俗に堕ちて、風俗を超え、名利を追って、名利を絶つ、時の流れに従って、波を揚げ、其の逝く処を知らず」。
 一体これは何を意味するのか?戦前犯した罪の反省か? 地獄へ落ちることを必須と感じ、その苦しみを甘んじて受ける覚悟なのか?
 思うに、彼は自らの罪状を十二分に認識し、死罪を以ってしても償えないことを承知していたのではないか。

 「阿片王」として知られる里見甫の墓が同じ市内にあることは、多くの市民にとって、必ずしも好感を以って迎えられないかも知れない。実際、今まで彼の墓の存在が公表されたことを、私は知らない。だが、郭沫若が10年間日本人妻子と共に隠れ済んだ須和田の寓居と併せて、里見の墓は、我が町もアジアの近・現代史に無縁ではないことを示す良いきっかけとなるに違いない。

 私は上海に累々と残る1920,30年代の古い建築に魅せられ、いつしか歴史の中に紛れ込んだ。現代に生活しながら、近・現代史を身を以って追体験する夢の中を彷徨っていたのだ。上海での記憶は、日本での生活の中で次第に遠く霞んでくる。しかしそれは、消えることなく、事あるごとに噴き出してくるマグマとなって、心の底に深く沈殿している。

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