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シベリア鉄道とオリエント急行

シベリア鉄道とオリエント急行

 シベリア鉄道については、一度「ハルピンと東清鉄道100年史」で触れたが、それは主題ではなかった。そこで東清鉄道とは別に、改めてシベリア鉄道本線について見てみたい。

 シベリア横断鉄道は、アレクサンドル三世が、広大なシベリア開発の必要性から建設を決意したことから始まる。そこでニコライ皇太子(後の皇帝ニコライ二世)は、1891年5月、東端となるウラジオストックで、第一期工事・ウラジオストック~ハバロフスク間の「ウスリー鉄道」起工式に臨んだ。西側ではモスクワから東へ1,873キロ離れたチェリァビンスクから建設が始まった。軌間ゲージは、将来欧州からの侵略の可能性を防ぐ目的で、欧州の1,435mmと異なる1,524mmを採用した。全線完成は1916年。モスクワ~ハバロフスク~ウラジオストック間は9,289km、1903年に完成した東清鉄道を利用する場合は7,416kmに短縮される。

 日本の鉄道と比較してみると、東京~鹿児島間1,492.2km、東京~青森間739.2km、併せても2,231.4kmに過ぎない。二十世期初頭、オスマン帝国がメッカ巡礼のためイスラム教徒の資金を集めて建設した沙漠を横断する「ヒジャーズ鉄道」でも、ハイファ~ダマスカス~メディナ間1,600km、メッカまでは総計2,080kmである。シベリア鉄道が当時世界最長、桁違いの長距離鉄道であったことが分かる。序にいえば、日露戦争時バルチック艦隊はバルト海から喜望峰を回り、印度洋を越えて日本海まで28,800kmを航海してきた。どうもロシア人の思考スケールは、領土の大きさだけではないように思える。

 完成当時、シベリア鉄道の平均時速は24km(後に88kmに向上)、モスクワから満洲まで最短でも30日、最長50日もかかった。一日当たり定期便4便を運行するため、一便当たり機関車2輛、貨車40輌を使うと、合計機関車400輌、貨車8,000輌が必要となる計算だ。路線の維持管理には、待避線、操車場、給水設備、駅舎、燃料倉庫、宿泊施設、医療施設など気が遠くなるほどの設備と人員を必要とした。

 最大の難工事は、バイカル湖を横断する「バイカル湖岸鉄道」建設にあった。湖岸鉄道が完成するまで、イルクーツクから対岸まで64kmを、荷物を積み替えて砕氷船フェリーで渡るほかなかった。冬季に湖面が氷結すると、吹きすさぶ極寒の湖面を歩兵隊は徒歩、士官はソリで横断したのだ。特大幅の枕木を轢いて機関車を通そうとした際に、氷が割れて沈没、多くの死傷者も出た。そこで1899年南岸のスルジャンカを回る湖岸鉄道が計画され、1905年湖岸に切り立つ断崖と山岳にトンネルと橋梁を渡して26kmの迂回ルートが完成した。

 ウラジオストックまでの「ウスリー鉄道」は1903年に完成していたが、シベリア鉄道がほぼ現在の形で全線開通するのは1916年、既に第一次世界大戦開始から2年も過ぎていたのだ。

 1917年4月、ウラジミル・レーニンは敵国ドイツが仕立てた特別列車で、亡命先スイスからサンクトベテルスブルグ(旧ペテログラード)に入る。1917年、2月革命でロマノフ王朝が崩壊し、アレクサンドル・ケレンスキー率いる臨時政府が成立する。更に同じ年に10月革命が勃発し、臨時政府はレーニン率いるボルシェヴィキに打倒される。
 1918年ロシアの一部であるウクライナが、中央同盟国(ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国、ブルガリア帝国)と「ブレスト・リトフスク講和条約」を結んだ結果、ロシアはバルト海沿岸から黒海まで(フィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニア、ウクライナ)を失い、多額の賠償金まで支払って、第一次大戦から正式に離脱する。これに反対する白系ロシア人は反革命運動を展開、以後4年間に及ぶ国内戦線が続くことになった。

 第一次大戦中、ロシアの主戦場は「東部戦線」にあったので、シベリア鉄道の果たす役割は少なかった。だが1918年、チェコ兵がボルシェヴィキに反抗して蜂起すると、ロシア側に残された西側の捕虜とオーストリア、ハンガリーからの脱走兵等が加わり、シベリア鉄道をのっとる事件に発展する。彼らはアレキサンドル・コルチャーク将軍を頭に、8千キロに及ぶシベリア鉄道を使ってウラジオストックに出て、船で欧州へ帰還しようと計画した。彼らはウラジオストックから西方7,200km、シベリア南西部のオムスクまで来て、そこに本拠を置き白軍政権の樹立を図った。
 連合国(日本、英国、仏国、米国、イタリア)は、革命赤軍に対する「白軍」として、彼らへの支援を表明する。英国もブライアン・ホックス中将の小隊をウラジオストックに派遣するなど、軍事介入に乗り出す。だが第一次大戦終了直後で、列国に十分な支援の余裕がある筈もなく、結果的にコルチャーク政権は孤立し崩壊した。1922年ウラジオストックも赤軍の手に落ちた。
 コルチャークは旧体制から略奪した5千万ポンドの金塊と貴重品を持って逃亡するが、イルクーツクで赤軍に捕まり即処刑された。残された白軍は、極寒のシベリアで路頭に迷う。燃料不足から機関車内の水が凍結、機缶など次々に破裂し、シラミとチフスがまん延するなど、シベリア鉄道は正に延々と続く死の旅路となったのだ。

 1932年、満州事変により満洲国が成立すると、翌年日本はソ連と共同で、シベリア鉄道を使った欧州までの国際列車を運行する。先ずは京釜線(1905年完成)で釜山~京城(現・ソウル)、次に京義線(1906年完成)で京城~平城~安東~奉天、更に満州鉄道で奉天~ハルピン~満洲里、最後はシベリア鉄道でイルクーツク~モスクワ~ワルシャワ~ベルリンへ、更にその先欧州各地へと、鉄路は続いていた。だが第二次世界大戦勃発により、国際列車はその短い生涯を閉じた。今考えると、正に夢のような長距離列車の旅であった。ジャパン・ツーリスト・ビュロー(JTB日本交通公社の前身)が発行する欧亜連絡切符で、釜山からパリその他欧州各国まで1万キロの旅ができたのだ。

オリエント急行

 長距離国際列車といえば、東西ヨーロッパを結ぶ「オリエント急行」なしには語れない。王侯貴族や外交官、裕福な商人など上流階級の人びとが、こぞって乗車した究極の豪華列車だ。
 1883年ワゴンリ社(Wagon-Lits)が仕立てた開通記念列車は、パリのストラスブール駅(現・パリ東駅)を出発し、コンスタンティノーブル(現・トルコのイスタンブール)を目指して6日間の旅に出た。寝台車2両(後年には3両)、食堂車1両、荷物車1両、車掌車1両を、蒸気機関車が牽引した。ルートは、パリ~ストラスブルグ~ミュンヘン~ザルツブルグ~ウィーン~ブタペスト~ブカレスト~コンスタンテイノーブルである。
 その後1919年にはシンプロン・オリエント急行が追加され、ロンドンからドーバー海峡を越えて参加する乗客をカレーで迎え、パリ~ローザンヌ~シンプロン・トンネル~ミラノ~ヴェニス~ベルグラード~ソフィア~イスタンブールと、南ルートを採った。更に、ベルグラードからアテネを目指すルートも加わり、オリエント急行は1930年代に最盛期を迎えた。だが、第二次世界大戦が起こると、ルートは各地で分断され、終焉を迎えた。更には航空便の普及とモータリゼーションが、長距離列車の旅の復活を阻んだ。だが、オリエント急行は、多くの人々の心に、深く消え去ることのない永遠の夢を残したのだ。

スィルケジ駅外観

 私は2019年イスタンブールを訪れた際、オリエント急行の終着駅・スィルケジ駅を訪ねた。1890年に建てられた煉瓦造りの駅は、赤煉瓦に白いストライプが走る昔のレトロな姿そのままで、時間が止まったように感じた。だが駅舎の中は人影が疎らで、昼食を取った高い天井の広い待合室の入口には「Orient Express」の看板が掛けられてはいたが、中はがらんとして人気がなかった。壁にはアガサ・クリスティやオリエント急行に所縁の人々の写真が、人待ち顔に飾られていて、往年の賑わいを思い起こさせた。

ハイダルパシャ駅

 最盛期、オリエント急行の乗客は、ここからボスポラス海峡の出口・マルマラ海を船で渡り、対岸・アジア側のハイダルパシャ埠頭にある駅から、アジアの奥へと旅を続けることが出来たのだ。1908年に完成した古城を思わせる巨大なハイダルパシャ駅からは、鉄道と車を乗り継いで、遠くバクダットやエジプトまで旅を続ける旅行者もいたのだ。残念ながら、アジア側の乗換駅は、ヨーロッパからの乗客が途絶えたことで海峡から内陸へ移された。こうしてハイダルパシャ駅は、その役目を終えた。ドイツ様式の優美な駅舎は全体を工事用キャンバスで覆われ、後方のプラット・フォームも崩れた屋根しか見えなかった。今後は博物館に変えられると言う。それは正に、オリエント急行そのものの運命を見る思いがした。

一度だけの夢のオリエント急行

 驚くべきことに、失われたオリエント急行の夢が只一度だけ実現したのだ。1986年日本のフジテレビ開局30周年記念とJRグループ民営化一周年を記念して、オリエント急行をアジアの日本まで持ってこようとする一大プロジェクトが動き出した。当初フランスでは、「そんな列車を本気で走らせようとする人間がいるとは、とても考えられない」と言われた。だが世界中で今なお生き続ける長距離列車への熱い思いと、フジテレビのプロデューサー・沼田篤良氏の努力が「オリエント急行」を復活させたのだ。

オリエント急行車両

 1988年10月6日、パリのリヨン駅から夢の列車は19泊20日の旅に出発した。ルートはパリ~ポツダム~リヒテンベルグ(東ドイツ)~ワルシャワ~ブレスト(ソ連)~モスクワ~イルクーツク~ザバイカリスク~満洲里~ハルピン~瀋陽~北京~広州~深圳~香港・・・徳山下松港~広島~東京。全行程15,494km, 正に世界最長の長距離列車として、ギネスブックに登録された。通過した国は、スイス、フランス、ベルギー、東西ドイツ、ポーランド、ソ連、中国、英領香港、日本の10カ国に及んだ。
 使われた車輌は、寝台車7輌、食堂車2輌、荷物車1輌、スタッフ車1輌、ピアノバー1輌、控車2輌、牽引する蒸気機関車を入れて16輌編成であった。パリから乗車した旅客は日本人21名、外国人15名、乗務員41名で、乗務員がお客より多かったのだ。

 どれ程の困難を乗り越えたのかは、想像に難くない。関係各国との折衝だけではない。国により軌道のゲージの幅が異なった:欧州標準軌道1,435mm、ソ連1,524mm, 日本1,067mm。そのため日本では30台の広軌道用の台車を準備した。一車輛の長さが日本より長いため、曲がれない個所が国内に300か所あり、線路の移設を余儀なくされた。日本より重いオリエント急行の車輌の重量を軽減するため、元の発電装置を外し、代わりにディーゼルエンジンの発電器を搭載するなど、日本国内でも大幅な修正が必要となった。

 日本国内では、函館から博多までの9泊10日の一周旅行から、ショートツアーまで3カ月間に各種の旅が運行され、参加者は29,000人に及んだ。
 1989年1月、オリエント急行の車両は一両を残し、返却するため下松港からハンブルグ港へ向う船に載せられた。残されたプルマン1両は、現在箱根ラリック美術館に展示されている。
 私はぽつんと一両だけ残されたプルマン車輛の中で、珈琲を飲みながら、パリを出発したオリエント急行が、シベリア鉄道、旧満州鉄道を経て中国、香港九竜駅まで辿りついた遙かな旅路を想像して胸が熱くなった。オリエント急行は、終にその名の通り、欧州とアジアを結ぶ「オリエント急行」と成ったのだ。

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